傀儡の君主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:38 UTC 版)
「スルターン・フサイン (サファヴィー朝)」の記事における「傀儡の君主」の解説
1694年、父が死去した時は兄アッバースを差し置いて即位したが、これは後宮の意向が絡んでいて、大叔母のマリヤム・ベーグムや宦官ら後宮の官僚達がアッバースより操りやすい人物を求めていたからであった。フサインは敬虔なイスラーム教徒で、治世初期に実権を握ったイスラム教シーア派の神学者ムハンマド・バーキール・マジュリシーの政策に従い、キリスト教・ユダヤ教・ゾロアスター教など他宗派やイスラーム教スンナ派・スーフィーの弾圧を行った。 ところが、間もなく政治を投げ出して酒と女に溺れるようになり、後宮の女性漁りに熱中して財政を傾けた。建築事業も赤字に繋がり、首都イスファハーン郊外に建設したファラハーバードと呼ばれる宮殿と、宗教施設チャハール・バーグ・マドラサとその付属施設である隊商宿・バザールを建てさせたことは高くついた。1706年に後宮の女性達や宦官、軍隊など6万人を連れてイスファハーンを離れ、歴代イマームの廟を巡礼して1年間もイスファハーンを空けたこと、行列が通過した都市に重税をかけたことも領民の不満を募らせていった。 無能なフサインの下で宦官がマジュリシーに代わって権力を握り政権は腐敗、地方行政も立ち行かなくなり、至る所で賄賂と派閥抗争が起こり軍隊も弱体化していった。フサインはこうした事態に対処するため、従属していたグルジア・カルトリ王国の国王ギオルギ11世(グルジン・ハーン)をイラン南東のケルマーン総督に任命して反乱を鎮圧、軍事力の増強を図ったが、一時凌ぎに過ぎず地方の不満は高まっていった。
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