三年戦役とは? わかりやすく解説

三年戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)

ティムール」の記事における「三年戦役」の解説

1386年より、ジョチ・ウルス拡大牽制することを目的とした、「三年戦役」の名で知られる西アジアへの遠征事業始められる1386年ティムールタブリーズ攻略するが、タブリーズはすでにトクタミシュによって破壊されていた。ジャライル朝支配するアゼルバイジャン支配下加えグルジア王国首都ティフリス攻撃するが、頑強な抵抗遭って攻略には至らなかった(ティムールグルジア侵攻英語版))。翌1387年ティムールシリア北部マラティヤアナトリア東部スィヴァス進出した中東各地地方政権君主領主ティムールコーカサス侵入エジプトマムルーク朝報告しており、ティムールから降伏勧告受けたスィヴァスのエルテナ侯国英語版)の君主ブルハネッディン(英語版)(アラビア語: قاضي برهان الدين‎ 転写: Qai Bürhan al-din)は、マムルーク朝オスマン帝国助け求める。この時にマムルーク軍がシリア北部派遣されるが、ティムール軍とマムルーク軍が直接戦闘することは無かった1386年から1387年にかけての冬、ティムール軍の先遣隊ダゲスタントクタミシュ軍隊遭遇する両軍交戦するが、勝敗決しないうちにトクタミシュ退却しコーカサスの北に引き上げた。この背信行為にもかかわらずティムールトクタミシュ寛大に接し彼に兵糧と共に和解提案する書簡送った。しかし、トクタミシュにとってはティムール温情屈辱でしかなく、ティムール攻撃するための準備取り掛かった1387年ティムールルリスタン拠点とする強盗団討伐隊を自ら指揮し捕らえた賊徒断崖から突き落とした。さらにティムール軍はヴァン湖畔の要塞制圧しアルメニア征服キリスト教徒である要塞守備兵断崖から突き落とし処刑したまた、ヴァン湖近辺遊牧生活を営むトゥルクマーン系の国家黒羊朝に対しては、ミーラーン・シャー率い軍隊派遣された。黒羊朝君主カラ・ムハンマド(アゼルバイジャン語版)はミーラーン・シャーに対してゲリラ戦展開したが、抵抗長く続かなかった。 1387年ティムールイルハン朝旧領成立したムザッファル朝領土進攻エスファハーン占領しムザッファル朝首都シーラーズ略奪した占領地エスファハーン住民ティムール軍の兵士徴税人殺害したために、見せしめとして殺戮が行われた。決められた数の首を持ってくるように命令され兵士によって70,000人の首が集められ、それを積み重ねた塔が建てられた。ティムールムザッファル朝君主シャー・シュジャーの甥シャー・ヤフヤー傀儡の君主据えて属領とした。 1380年代中頃ペルシア東部ティムール朝支配下に入る。

※この「三年戦役」の解説は、「ティムール」の解説の一部です。
「三年戦役」を含む「ティムール」の記事については、「ティムール」の概要を参照ください。

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