三年式機関銃の登場
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1909年(明治42年)、当時、いくつもの銃器の開発を行ってきた南部麒次郎はこの時期主力機関銃の開発を進めた。当時の機関銃の欠点は操作が複雑で、機関部が壊れやすい、銃身の放熱不備などがあげられた。そこで南部麒次郎はこれらの欠点を極力修正し、1914年(大正3年)に三年式機関銃として制式採用、三八式機関銃と比べると以下の点が修正された。 破損しやすい閉鎖器を肉厚にして破損を防いだ。また破損しても簡単に交換できるように改良。 遊底を改良し、薬莢の破損や雷管の脱落を防止。 保弾板の送り機構を歯車式から水平往復運動式に変更して、送弾中に保弾板が跳ね上がることを防止。 保弾板の加工精度の甘さから弾を装填しても真っ直ぐに前を向いていない事があったがそれを修正。 塗油装置の油入れの容量を増して銃弾だけでなく機関部にも塗油されるようにした。 保弾板挿入口の下部にガイドローラーを装備。保管・運搬時に折りたためば、挿入口の防塵カバーとしても利用できる。 排莢口に防塵カバーを装備。閉まった状態のカバーは遊底が前後動すると自動的に開くが、その後は開いたままとなるので、再度手で閉める必要がある。 撃発不良を防ぐためにボルトの後退力が不足の時はボルトが前進しないようにした。 銃身の空冷効果を高めるため放熱フィンを増加した。 銃身と放熱筒を別部品とし、銃身外側と放熱筒内側を密着させるための緊定管を装備し、銃身交換を容易にした。ただし敵前で迅速に銃身を交換することまでは意図していない。 三脚架を伏撃ちの姿勢のまま容易に高さ調整できる様式に変更した。また提棍(運搬用ハンドル)や防盾を取り付けることができるようになった。 銃床とピストルグリップを廃し、両手で支持する握把に変更した。 一説には、薬莢の薬室への張り付き防止の為、三八式実包の減装弾を使用した。 三年式機関銃の開発後、初陣を飾ったのは1919年(大正8年)に起こったシベリア出兵で寒冷地においても確実に作動する三年式機関銃は兵士の間でかなり評判が良かった。 その後、満州事変や第一次上海事変、日中戦争に至るまで活躍している。また日々の機関銃整備をきちんと行う事により、数百発撃っても故障が少ないといった信頼性があった。この機関銃に対し南部麒次郎も「三八式機関銃は射手の技量で性能が左右したが、三年式機関銃は誰が撃っても性能は変わらない」という名言を残している。のちに彼はこの功績で、勲二等瑞宝章を授与、さらに工学博士の学位も取得した。
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