イスラームの信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:40 UTC 版)
イスラム教を信仰するとともにモンゴルの伝統にも従ったティムールは、酒をこよなく愛し、伝統的なモンゴルのシャーマニズムを信仰する人間に改宗を強制しなかった。ティムールは同朋であるイスラム教徒を殺害し、時には奴隷とした。さらにモスクを汚し、イマームを殺害するなど、敬虔なイスラム教徒とは言い難い行動が多く見られた。ヤズディー、ハーフィズ・アブルー、アラブシャーらティムールと同時代の歴史家は、彼が絵画に興味を持っていたことを記録している。ティムールはマニ教の教祖マニが描いたという絵画を飾り、ペルシアやバグダードの画家に宮殿を飾る壁画を描かせた。 ティムールは信心深いムスリムとは言い難かったが、一定の信仰心も持ち合わせており、スーフィズムに強い関心を抱いていた。スーフィズムだけでなく正統派のイスラームにも敬意を表し、ティムールはウラマーと積極的に交流を持ち、イスラーム学者の著述活動に保護を与えた。一方でニーマトゥッラー教団の創始者ニーマトゥッラー・ワリーの活動を危険視してマー・ワラー・アンナフルから追放し、各地を移動するスーフィズムの修行者を間諜として利用していた。 ティムールは父のタラガイが師事していたスーフィー・シャムスッディーン・クラールを尊敬し、自身の軍事的成功はクラールの祈りによってもたらされたと述懐した。バルフ包囲の際にティムールの陣営を訪れたスーフィー・サイイド・バラカはティムールの成功を予言し、ティムールは彼を師父とした。バラカは宗教面だけでなく政治においてもティムールに助言を与え、1404年に没した。ティムールは自分が死んだ後はバラカの足元に葬って欲しいと考えており、ティムールが亡くなった後にバラカの遺体はグーリ・アミール廟に運び込まれてティムールの近くに安置された。1373/74年、ティムールは故郷のキシュに建立されていたクラールの廟の隣に新たな廟を建て、ここに父タラガイの遺体を安置する。1397年にはヤシにあるスーフィー・アフマド・ヤサヴィーの墓を巡礼した。この時にヤサヴィーの廟に用地をワクフとして寄進し、霊廟の増築を命令した。 ある年代記には、ティムールがキリスト教寺院の神性とキリスト教徒の信仰心に理解を示した伝承が記されている。三年戦役でのアルメニア攻略の際、ティムールは虐殺を逃れて洞窟内の修道院に隠れたキリスト教徒の集団に遭遇し、彼らに命を助けるかわりに修道院が保管している古い写本を提出するように要求した。キリスト教徒は命よりも大事な写本の提供を拒み、彼らの信仰心に心を打たれたティムールは命を助けたという。
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