対反乱と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 03:23 UTC 版)
「トマ・ロベール・ブジョー」の記事における「対反乱と影響」の解説
そして「襲撃(ラジア)」は古来からアフリカで戦利品を獲得するために行われてきた大きな音声で敵を圧倒する襲撃の手法であったが、ブジョーはこの穀物の焼却や障害物の破壊を近代的な戦闘教義にまで発展させた。ブジョーはアルジェリア各地でラジアを焦土作戦として実施し、移動性民族たちの生活基盤を徹底的かつ全面的に破壊した。これは部隊の残忍性が大いに増大されることになり、1845年6月にエマブル・ペリシエ大佐がシェリフ地方海岸地帯に位置するダーラの洞窟に、アラブ人集団を罠で捕獲したときには最悪であった。交渉の後にペリシエ大佐は洞窟に閉じ込めた上で洞窟の入り口で火を炊いて男女500人のアラブ人が窒息死した。 この行為が上院で報告されるとフランスでは抗議が噴出した。ブジョーはしかしながらペリシエを賛美して同様の行為が行われることを示唆した。同年8月にサンタルノ大佐は洞窟に逃げ込んだアラブ人を生き埋めにし、その後の2年間も大量虐殺は続いた。アルジェリア征服が完了した後に一部の将校はフランス人移民の人種差別的行為を防止するために軍隊は働いていると考えるようになるが、アラブ人大衆の敵意と不信感は増大した。ゆえにアラブ人の間でイスラームの信仰が復活し始めた際にも結束を強める恐れがあるとしてこれを警戒した。またブジョーの成果はフランス国内の反発を生んでしまい、フランス兵の価値観を歪めてアフリカに秩序をもたらすというフランスの主張との乖離を生じさせた。1846年にアレクシス・ド・トクヴィルはアルジェリアの軍当局の過剰な殺戮行為に衝撃を受けて批判し、これはフランス国内に19世紀末のドレフュス事件と重なって反軍活動を活性化させた。さらにアルジェリア駐留フランス軍とフランスの関係は疎遠なものとなり、フランスのために命を懸けて戦っていると信じている軍人たちは自分たちが誤解されて理解されている、または無知にも拘らず批判されていることによって後々までフランスの社軍関係に影響を残した。 その後、マダガスカル総督を務めたジョゼフ・ガリエニやモロッコ統監のユベール・リョテにより継承され発展し、アルジェリア戦争においてジャック・マシュによる苛烈な反乱鎮圧戦術に昇華された。
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