対北海道連絡線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 09:52 UTC 版)
1894年(明治27年)頃、東奥日報紙上にて函館区長の常野正義が野辺地駅より大間もしくは佐井まで鉄道を建設し、大間と函館を貨客船にて結び、上野駅 - 函館駅間の所要時間を9時間短縮、将来函館 - 札幌間に鉄道が敷設されれば上野駅 - 札幌駅間を35時間程度で結ぶ構想を提唱している(下北鉄道構想)。青森側にも同様の構想があったが、ローカルな生活圏を基に構想したことに由来する主導権争いもあり、いずれも実現しなかった。 1895年(明治28年)から1896年(明治29年)頃、大湊軍港の創設を予想して敷設を計画する者が3名現れたがのちの不況により断念した。 1923年(大正12年)には函館にて海産商を営み、函館市議会議員を務めた阿部覚治が「大函館論(文化サークルの紅茶倶楽部·刊)」にて関門トンネル (山陽本線)が着手されたことを引き出し、函館 - 大間間を海底鉄道トンネルで結ぶ構想を発表している。船舶の技術の進歩を考えても津軽海峡の強風や高い波を克服し、確実な輸送をするのは難しい。もし関門海峡のように海底鉄道トンネルが掘れるならばそのような問題は解決できると指摘した。実際、津軽海峡は潮流が速く複雑で、四季を通じて激しい気象や海象が起き、瀬戸内海、玄界灘に並ぶ日本の三大海難所である。 参考として付記するが、1939年(昭和14年)国威発揚で弾丸列車による大陸縦断鉄道構想が発表される。机上調査の域であるが津軽海峡部分は下北半島と函館を結ぶルートであった。
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