対反乱戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/18 04:38 UTC 版)
1948年、第11電撃落下傘大隊の第2代大隊長に任命される。この部隊は落下傘隊員で構成される防諜・外国資料局(SDECE)の所属部隊で、同機関の秘密作戦を担当していた。編成後すぐに第一次インドシナ戦争に投入され数々の作戦に参加。ディエンビエンフーの戦いの際、彼が率いた部隊はラオスから進撃して同地を救援する作戦を実行、しかし到着前に守備隊は降伏し作戦は中止された。 1955年、第10落下傘師団に配属され、1956年には師団参謀長に任命される。11月5日、第二次中東戦争(スエズ動乱)ではフランス派遣軍第10落下傘師団の一員として従軍した。1957年1月16日に発生したラウル・サラン将軍暗殺未遂事件(バズーカ事件)の容疑者を尋問するも、結局その理由を聞き出すことはできなかった。 1957年1月7日、前年9月頃から続いていたアルジェの戦いの決定的解決を求めるラコスト総督の要請に応じ、第10落下傘師団を治安維持に投入されることとなり、ゴダールは直ちにアルジェ警察に部下を派遣し、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の容疑者リストを接収し、不眠不休の作業の末検挙対象者を絞り隷下の4個落下傘連隊に配布の上、令状無しでの逮捕を推し進めた。拘束した容疑者達は拘留先にて拷問にかけられた。こうした苛烈な掃討戦はFLN構成員達の結束を揺るがし、徐々にゴダールの手元にはその組織の概要が掴める情報が集まってきた。また、FLNアルジェ地区作戦指導者ヤーセフ・サーディの身柄をめぐる行動は市民も巻き込んでの激しい戦いとなったが、最後はゴダールが直接指揮を執ってサーディを逮捕した。 アルジェの戦いの後、その焦点は地方に移った。ゴダールはアルジェでの勝利の余勢を駆って地方幹部の掃討するべく、ロジェ・トランキエ大佐が極秘裏に創設した情報開発班(GRE)を引継いで謀略に打って出た。この組織は現地人や混血人で構成され、スパイの潜入や二重スパイの摘発を行う諜報機関であった。友軍の妨害もあったが(前線部隊は敵部隊の中に味方のスパイがいるとは当然思っていない)、FLNの資金源破壊や主要幹部の一斉摘発で目覚しい成果を挙げた。さらに偽の通信文を意図的に放置し、それを見たFLN幹部を疑心暗鬼に落とし入れ、新規構成員やアルジェからの脱出者を粛清させたのであった。 ゴダールがかつて指揮していた第11電撃落下傘大隊は、防諜・外国資料局とともに武器商人対しても「攻撃」を行っていた。それは商品であるプラスチック爆薬がカゼインにすり替わっていたり、関係国に圧力をかけ商品を使用不能な状態にさせた上で輸出させたり、あるいはもっと直接的な方法で暗殺も行われた。 1958年、ジャック・マシュ将軍の第10落下傘師団長解任事件により、アルジェの最高権力者に君臨した3人の大佐連(他の二人は落下傘師団参謀長アントワーヌ・アルグー大佐とゴダールの後任として第五局長を務めるジャン・ギャルド大佐である)の一人となった。
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