対十人委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:22 UTC 版)
「マルクス・ホラティウス・バルバトゥス」の記事における「対十人委員会」の解説
紀元前449年、マルクス・ホラティウスは、第二次十人委員会がその権力を手放そうとしないことが分かると、ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥスと共に、最大の反対者となった。 プレブス(平民)出身で反抗的な屈強の男、ルキウス・シッキウス(en)が戦争に紛れて十人委員会が送った刺客に暗殺された。さらに十人委員会の中心人物であるアッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌスは、ウェルギニアという若い女性を気に入り、彼女を手に入れるために不条理な裁判を行い、そのため彼女は、娘の貞操を守ろうとした父親によって殺された。これをきっかけにプレブスの反乱が発生し、アウェンティヌスの丘を占拠した。ホラティウスとウァレリウスはプレブスにも人気があったため、元老院の依頼によってモンテ・サクロに赴き、プレブスと交渉して反乱を終結させた。十人委員会は廃止され、委員は逮捕された。
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