プレブスの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/09/11 03:47 UTC 版)
この丘は、紀元前494年にプレブス(プレープス、平民)たちが反乱を起こした際に、彼らが立てこもった場所としてよく知られている。すべての平民はこの丘に数日間とどまって、都市ローマの日常生活を支えることを拒んだ。元老メネニウス・アグリッパ (Menenius Agrippa)は、プレブスたちのもとに足を運び、社会を人体に喩え、それぞれの部分が全体の利益のために担うべき役割があると説く、今日でも有名な弁解を交えた説得を行なった。事態が収拾されて都市の日常生活が取り戻されると、プレブスたちは護民官制度を設け、自らの議会であるコンシリウム・プレビス (Concilium Plebis) を設け、この議会は護民官を選出し、また、プレブスたちのための建物を建てた。さらに、プレブスの議員たちの意向によって、平民のための法制度が設けられ。護民官やプレブスの地位は、冒されざるものとなった。 この事件を記念し、獲得された合意を担保するために、プレブスたちは丘の上に荒ぶる神ユピテルに捧げた神殿を建立した。一説には、これが「聖なる」を意味する「サクロ」の名がこの丘に冠されるようになった由来であるという。
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