プレブス執政官に関する現代の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:19 UTC 版)
「ルキウス・セクスティウス・セクスティヌス・ラテラヌス」の記事における「プレブス執政官に関する現代の研究」の解説
現代の歴史家の何人かは、執政官の一人をプレブスとするとしたとされるリキニウス・セクスティウス法は明確性を欠いていると考えている。リウィウスは、この法をプレブスの政治権利が拡大した画期的なものと見ている。T.J. コーネルは、リウィウスと彼が参照している資料から、プレブスが執政官に継続的に就任するようになったのは、紀元前342年に護民官ルキウス・ゲヌキウスが成立させたゲヌキウス法以降であるとみている(リキニウス・セクスティウス法設定以降も執政官が二人ともパトリキであった年がある)。ゲヌキウス法は執政官を二人ともプレブスが務めることを可能にしたものとされる。しかしながら、カピトリヌスのファスティに記録された歴代の執政官リストからは、この法は一人の執政官をプレブスから選ぶことを義務付けたものに思える。コーネルは、パトリキ、プレブスから執政官を一人ずつ選ぶこととしたのはゲヌキウス法であり、リキニウス・セクスティウス法は、プレブスが執政官に就任することを可能とした、政治権力の調整に過ぎなかったのではないかと見ている。このため、セクスティウスが最初のプレブス執政官に就任したにも関わらず、「その業績は印象的な事ではない」。また、プレブスでも護民官経験者にのみ執政官への道を開いたのではないかともしている。またこのリキニウス・セクスティウス法で提示された3つの案はどれも当時の社会情勢と合致していると考えられ、おそらく史実と思われるが異論もある。フォン・フリッツとソルディは執政官と法務官に関する法は行政的な改革であると考えている。 リウィウスによると、執政官権限を持つ執政武官制度は紀元前444年に始まり、長年にわたり従来の執政官制度に代わって運用されてきた(執政武官の数は3人から6人であった)。これは執政官を自身の階級から出すことを望むプレブスに対して、パトリキが妥協したものであった。しかし、紀元前444年から紀元前401年にかけて、100人が就任した執政武官の内プレブスは2人のみであった。他方、紀元前400年から紀元前376年においては、定員6名の内プレブスが半数を超えたことが紀元前400年(4人)、紀元前399年(5人)および紀元前396年(5人)の三回あり、紀元前379年には半数の3人がプレブス出身者であった。コーネルはこれに関していくらかの疑問を呈している。紀元前444から紀元前401年にかけてたった二人しかプレブス出身の執政武官がいないのは何故か?その後の期間に多くのプレブスが執政武官に就任していることを考えると、何故プレブスが執政官に就任可能とされたことが画期的とみなされたのか。この法に大きな抵抗があったのは何故なのか。古代の資料は、プレブスが執政官への就任が認められたことが画期的と考えているが、執政官の一人はパトリキから出すこととなっていた。しかしながら、リキニウス・セクスティウス法が成立してから12年経過した紀元前355年から紀元前343年にかけて、執政官は二人ともパトリキであった。毎年プレブス執政官が選出されるようになるのはそれ以降、即ちゲヌキウス法制定以降のことである。
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