リキニウス・セクスティウス法
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リキニウス・セクスティウス法(リキニウス・セクスティウスほう、ラテン語: leges Liciniae Sextiae)は、古代ローマで紀元前367年に護民官ガイウス・リキニウス・ストロ、ルキウス・セクスティウス・セクスティヌス・ラテラヌスによって提案、制定された法。名称は二人の提案者の名前から。リキニウス法とも表記される。
共和政ローマ前半のパトリキ(貴族)とプレブス(平民)間の身分闘争において、重要な画期となった。
内容
ティトゥス・リウィウスによれば、内容は以下の通りである。
- トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテを廃止しコンスル(執政官)を復活させる。コンスルのうち一人はプレブスから選出されなければならない。
- 何人も500ユゲラ以上の土地を保持してはならない。
- 債務者がすでに払った利息は元本から差し引かれる。そして残額を三年間の均等分割払いで支払う。
意義
この法により債務問題に関してプレブスの救済が図られただけでなく、公有地占有の制限により、富裕層による事実上の大土地所有が抑制された。この公有地の占有面積の制限はのちのグラックス兄弟の改革時に再び持ち出されることになった。
また、これら以上にローマの身分闘争の歴史において重要であったのが、コンスルのうち1人をプレブスから選出するようにしたことであった。ローマの最高の政務官職は2名のコンスルであったが、その就任は長くパトリキのみに限られプレブスは排除されていた。紀元前367年当時はプレブスも就任可能なトリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ(執政官権限の軍事担当官)がコンスルに代わって最高の政務官職としておかれていたが、この職にはインペリウムは与えられておらず、また定数も3名ないし4名から6名と多かった。リキニウス・セクスティウス法はコンスル制を復活させ、インペリウム保持者への道をプレブスにも開いた。
関連項目
外部リンク
- 『リキニウス‐セクスティウス法』 - コトバンク
リキニウス・セクスティウス法
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「ルキウス・セクスティウス・セクスティヌス・ラテラヌス」の記事における「リキニウス・セクスティウス法」の解説
セクスティウスは護民官としてガイウス・リキニウス・ストロと共にリキニウス・セクスティウス法を成立させた。この法律はもともと三条からなっており、一つは「債務者がすでに払った利息は元本から差し引かれる。そして残額を三年間の均等分割払いで支払う」、もう一つは「何人も500ユゲラ(約125ヘクタール)以上の土地を保持してはならない。公有地で100匹以上の羊を放牧してはならない」であり、最も重要なのは「執政武官(トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ)を廃止し執政官を復活させる。執政官のうち一人はプレブスから選出されなければならない」であった 。両者は10年間護民官を継続していた。紀元前369年に両護民官は聖なるシビュラの書を守護する神官に関する法案を提唱して翌年成立している。紀元前368年には債務と土地に関する法案が成立したが、執政官をプレブスに開放する法案は拒否された。しかし、紀元前367年にはこの法案も成立している。セクスティウスはこの年に行われた選挙で翌年の執政官に選出された。ティトゥス・リウィウスは彼を「この職に就任する最初の栄誉を得たプレブス」と書いている。
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