護民官として
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「ガイウス・フラミニウス」の記事における「護民官として」の解説
紀元前232年に護民官に就任すると、第一次ポエニ戦争の後農地を失い都市部に流入していた貧民の救済に乗り出す。元老院の反対を押し切り、約半世紀前にデンタトゥスによってガリア人から獲得したピケナム周辺 (現リミニ南方) を対象とした土地分配法を制定し、戦争で土地を失った人々に分配した。しかし、元々の住人であったガリア人の反発を受けることになる。
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護民官として
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「ティトゥス・ラビエヌス」の記事における「護民官として」の解説
紀元前63年に護民官となったラビエヌスは、紀元前100年に護民官(当時)ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス及びその一派を殺害した罪でガイウス・ラビリウス(英語版)を告発した。この告訴はカエサルがラビエヌスと組んで起訴したものとされるが、ラビエヌス自身も叔父がサトゥルニヌス一派に属してその際に殺害されたことからラビリウスを告発する理由はあった。カエサルはポンペイウス及びマルクス・リキニウス・クラッススとの政治的な同盟(第一回三頭政治)を結ぶ前であったが、ラビエヌスは個人的にカエサルと親しい仲であった。 カエサルがラビリウスを告発した真の目的はセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム(元老院最終勧告)への疑義を突き付けることであったが、告発自体は正式な手続を踏んでおり、ラビリウスが訴追自体に異を唱えることは、護民官特権であった「身体の不可侵権」にも触れる問題であった。とは言え、マルクス・トゥッリウス・キケロが弁護に付いた上でラビリウスは告発に抗し、ラビリウスは高齢もあってローマ市民の同情を集めた。結局は元老院での判決が下される前に裁判自体が立ち消え状態になって刑事罰が回避されてカエサルの野望は一旦挫折することとなった。なお、ラビリウスは罰金を支払うことが出来ず、ローマから追放となった。 カエサルは紀元前59年にコンスルとなり、紀元前58年からプロコンスルとしてガリア・キサルピナなどの属州総督となることが決まった。護民官及びプラエトルの任期が終了していたラビエヌスはガリア総督カエサルのレガトゥス(総督代理)としてガリアへ赴くこととなった。
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