グラックス兄弟の改革
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「内乱の一世紀」の記事における「グラックス兄弟の改革」の解説
上述のように、ローマの拡大は反面ではさまざまな「ゆがみ」をもたらしたが、硬直化した元老院はこれに対し制度の抜本的改革ではなく、軍隊を動員しての抑圧という短絡的な手段で応えた。紀元前139年にシチリア島でローマを揺るがす大反乱(第一次奴隷戦争)が起こる。また、紀元前133年から紀元前130年にかけてペルガモン王国の自称「王」アリストニコスがローマ支配に対し反乱を起こし、奴隷や貧農に呼びかけて拡大した。これらの騒乱自体は鎮圧されたもののローマ共和政は明らかな行き詰まりを見せ始めていた。 腐敗した共和政を改革すべく、民衆派(ポプラレス)のティベリウス・グラックスが護民官としてセンプロニウス農地法(リキニウス法)を実行に移して、大土地所有の制限や無産農民の土地分配を図るなど社会再建にむけた制度改革を推進したが、その過程で元老院と対立し、紀元前133年、志半ばにして支持者たちと共に非業の死を遂げた。ここに、ローマ市で市民同士が血を流して争う事態となり、これよりほぼ100年間、ローマでは「内乱の一世紀」と呼ばれる内乱状態がつづくこととなる。紀元前121年、兄の志を継がんとした弟のガイウス・グラックスもまた元老院と対立するも失脚し自害、数千人といわれる支持者たちもまた処刑された。このグラックス兄弟の死と改革の頓挫によって共和政ローマの混迷は決定的なものとなった。それは、法の無力、実力時代の到来を示すできごとであったのである。
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グラックス兄弟の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:04 UTC 版)
詳細は「グラックス兄弟」を参照 紀元前133年、護民官ティベリウス・グラックスは、センプロニウス農地法をケントゥリア民会に提出する。この法案は一人の管理出来る国有地を制限してそれを超えた分を没収し、その街に実際に住んでいる農民たちに少ない賃貸料で再配分しようとしたものである。 紀元前122年にはティベリウスの弟ガイウス・グラックスによって更なる改革が試みられた。この改革は法の適用をイタリア中の植民市へ拡大する事をも目論んでいたが、既得権益層からの大反発を食らって実現しなかった。 この後、紀元前118年までには穀物の価格統制と国有地の再分配は有名無実化し、紀元前111年までにはイタリアでの大土地所有が認められるよう、骨抜きにされていくこととなった。
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