グラックス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:31 UTC 版)
ティベリウス・グラックスは、ローマ市民の信頼には応えたが、同盟国やラテン人との条約は守らなかった キケロ『国家論』3.29 ローマの護民官ティベリウス・グラックスが紀元前133年に定めたセンプロニウス法(Lex Sempronia agraria altera iudicandis)によって、土地分配3人委員が結成されたものの、それはイタリック人が持っていた公有地の利用権を脅かすものでしかなかった。そのため、イタリック人たちは初めてローマ市民権を意識し始めたという。土地を利用していたイタリック人は分割を渋り、引き延ばし、その抵抗を和らげるために市民権の付与も考えられた。3人委員の一人でもあったマルクス・フラックスが後押ししたものの、元老院の反対にあったとアッピアノスは記している。しかしこの公有地の利用権は、スキピオ・アエミリアヌスの影響力によって元老院の横槍が入り、現状維持されることになった。 ローマは紀元前125年のプラエトル、ルキウス・オピミウスがラテン植民市のフレゲッラエ(英語版)を破壊するという行為に及んだものの、この頃からイタリック人の市独自の政務官に対しては市民権を与えるようになったと考えられている。ラテン植民市は、古くはローマ人とラティウムに住んでいたラテン人とで建設されたが、ラティウム戦争終結後は、むしろローマ人が主体となって建設されており、ハンニバル戦争の時でも最後までローマに忠誠を誓った都市群で、このようにラテン植民市を攻撃することは当時のローマとしては考えられない行為であり、その原因は以前からフレゲッラエに流入していたオスク語族の影響を嫌ったためではないかとも考えられている。またフレゲッラエは対サムニウムの要塞群の一つでもあった。 次にガイウス・グラックスがやってきた。しかし彼の土地分配法も、紀元前121年の彼の死と共にうやむやとなり、公有地の利用権にはさほど影響を与えなかった。また、海外での交易にも影響はなかった。しかし、思わぬところで影響が出ることとなった。それは、その頃設置された、政務官による恐喝を裁く常設審問所(quaestio de repetundis)の、審判人(現在でいうところの陪審員に近い)を、元老院議員からエクィテスに移すとする法(Lex Sempronia iudiciaria)であった。
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