カルタゴの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 06:10 UTC 版)
小スキピオはカルタゴの破壊を望んでおらず、スキピオ・ナシカも元老院を説得したが、結局カルタゴは完全に破壊するよう命令された。そして、カルタゴの跡地に鋤を走らせ、法的にその存在を消去し、二度と復興しないよう永遠の呪いがかけられた。最近城壁が発掘されたが、1m以上の灰が積もっており、焼けた木や鉄、投石機が発見された。500年の繁栄の跡地に、ローマの奴隷が牛を飼っていたのだ。 — テオドール・モムゼン、『ローマ史 IV』 ローマはカルタゴの町を廃墟のまま留めておく決定を下した。元老院から10人の委員が派遣され、スキピオはさらなる破壊を進めるように命じられた。また、将来この地に再定住しようとする恐れがあるすべての者に対する呪詛の儀式が行われた。都市の跡地はアゲル・プブリクス(英語版)(ローマの公有地)として没収された。スキピオは凱旋式を挙行し、養祖父と同じように「アフリカヌス」のアグノーメンを名乗った。一方でハスドルバルはイタリアの地所へ引退するという誓約と共に降伏していたものの、その後の運命については定かではない。 カルタゴの最期について、古代からの記述は若干食い違いがある。アッピアノスは呪いのことは書いておらず、フロルスによれば火をつけたのはカルタゴ人自身である。オロシウスの時代になると、17日の間燃え盛った火によって全てが灰になり、捕虜が売られたと書かれている。ヨハネス・ゾナラスは、大カトがこの時まで生きており、破壊を主導して呪いをかけたと考えている。ストラボンやヒッポのアウグスティヌスはカルタゴは完全に破壊されたとしている。 17世紀のローレンス・エチャード、18世紀のシャルル・ロランといった歴史家もカルタゴは破壊されたとしているが、テオドール・モムゼンによってカルタゴが完全破壊された上で呪いをかけられたことが決定付けられ、19世紀の考古学者もそれをほぼ踏襲しており、これは恐らくオロシウスの誇張を受け入れたためと考えられる。しかしプルタルコスがカルタゴの廃墟に佇むガイウス・マリウスの姿を描いており、実際には廃墟のまま捨て置かれ、何世紀にもわたって建材の採収地になっていた。ただ、なんらかの儀式が行われ神々にこの都市が奉献されたことを、5世紀のマクロビウス(英語版)が記しており、グラックス時代の土地分配への反対理由ともなっている。更に紀元前81年に再度奉献されたようである。この儀式に鋤が使われ、何の利益をも得られないようにされたと3世紀の法学者ヘレンニウス・モデスティヌス(英語版)が記しており、18世紀末頃にはカルタゴは完全に破壊されたと信じられ、1810年の『ブリタニカ百科事典』第4版にもそう記された。 戦争後にローマ軍が都市に塩を撒いたとする説があるものの、これは19世紀の創作であると考えられている。初出は1930年のケンブリッジ古代史とする説もあり、その後の学者にも踏襲された。恐らく聖書の『士師記』の記述に影響を受けたもので、古代近東の儀式が紛れ込んだものと思われる。それ以前にも塩の話は民俗学的なモチーフとして存在し、中世イタリアにまで遡れるという説もあり、パドヴァがアッティラに破壊される際に塩を撒かれたとする記述があるという。
※この「カルタゴの最期」の解説は、「第三次ポエニ戦争」の解説の一部です。
「カルタゴの最期」を含む「第三次ポエニ戦争」の記事については、「第三次ポエニ戦争」の概要を参照ください。
- カルタゴの最期のページへのリンク