カルタゴの防衛体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 11:07 UTC 版)
「第三次ポエニ戦争」の記事における「カルタゴの防衛体制」の解説
カルタゴの都市の規模は当時としては異例の大きさであり、現代の学者は人口を90,000人から800,000人の範囲で推定している。この範囲のいずれの数値であったにせよ、カルタゴは当時の地中海地域で最も人口の多い都市の一つであった。都市は周囲を全長35キロメートル超の城壁で強固に要塞化されていた。陸側の主要な接近手段から都市を防御するために三つの防衛線が存在し、そのうち最も強固なものは幅9メートル、高さ15から20メートルのレンガ造りの壁からなり、壁の前には幅20メートルの堀が築かれていた。また、壁の内側には24,000人以上の兵士を収容できる兵舎が建てられていた。都市には頼ることが可能な地下水源はほとんどなかったものの、雨水を集めて水路に通すための複雑な仕組みや、雨水を貯めるための多くの貯水槽が存在した。 カルタゴは市民から兵を募り、戦う意思のあるすべての奴隷を解放することによって、都市を防衛するための強力で士気の高い軍隊を作り上げていった。また、少なくとも20,000人の規模に及ぶ野戦軍を組織し、野戦軍は死刑囚の監房から解放されたばかりであったハスドルバルの指揮下に置かれた。この軍隊は都市から25キロメートル南方に位置するネフェリスに拠点を置いた。アッピアノスはアフリカに上陸したローマ軍の兵力を84,000人としているが、現代の学者は40,000人から50,000人の間と推定しており、そのうち4,000人は騎兵であったと考えられている。
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