カルタゴ戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/07 13:31 UTC 版)
自らの領地を解放していくティモレオンにカルタゴは激怒した。また、ヒケタスは僭主の座を諦めきれず、カルタゴに再びシュラクサイを攻めるよう要請した。この結果、カルタゴはハミルカルとハスバルドルを指揮官に任命し、シチリアの西部リリュバイオンに大軍(歩兵7万、戦車・騎兵1万)を派遣した。リリュバイオンに結集したカルタゴ軍は、シュラクサイ目指して行軍を始めた。 カルタゴ軍はシュラクサイに向かうため、クリミソス河を渡河する必要があった。これをチャンスと見たティモレオンは、コリントス軍とシュラクサイ軍から歩兵5000名と騎兵1000名を連れて出撃した。シュラクサイからクリミソス河までは200km以上あり、到着に8日掛かる。この間にティモレオン指揮下の1000名ほどの傭兵部隊が恐怖のために逃げ出した。クリミソス河に到着したティモレオン軍は、渡河地点がよく見える丘に布陣し、カルタゴ軍の到着を待った。 総勢8万にも及ぶカルタゴの大軍が現れ、クリミソス河の浅瀬から渡河を始めた。カルタゴ軍の一万の戦車・騎兵部隊が渡り終えた頃に、ティモレオンは騎兵部隊に突撃命令を出した。ここに、クリミソス河の戦いが勃発した。ギリシア騎兵部隊は一万の戦車・騎兵部隊を陽動し、カルタゴ戦車・騎兵部隊は追撃するあまり遠くへ離脱してしまった。無防備になったカルタゴ歩兵部隊に、ティモレオンは重装歩兵部隊を突入させた。クリミソス河の浅瀬の幅は狭く、カルタゴは大軍を展開させることができなかったので、少数の軍隊でも対抗することができた。白兵戦ではギリシア人の方が勇気と戦闘技術において勝っており、カルタゴ軍を圧倒した。次々と渡河してくる大量の兵士たちがカルタゴ軍を支えたが、天候悪化によってクリミソス河が荒れ始め、カルタゴ軍の士気は失墜した。そこに、ギリシア騎兵部隊に敗北したカルタゴ戦車・騎兵部隊が撤退するために雪崩れ込み、カルタゴ軍は大混乱に陥った。その内に河の水嵩も増し、激流となり、多くの渡河中のカルタゴ軍は溺れ死んだ。カルタゴ軍の精鋭部隊であった神殿部隊2500名のみが善戦したが、最終的に皆殺しにされた。カルタゴ軍は敗走を余儀なくされ、1万人が死に、1万5000人が捕虜として捕らえられた。カルタゴ軍の戦利品はあまりにも多かった為、全て集め終えるのに三日かかったという。 紀元前338年、カルタゴはシチリア島における領土をプラタニ以西に限定し、シチリア島の僭主たちを援助しないという条約に同意し、戦争は終結した。ティモレオンによってシチリア諸都市がカルタゴという強大な国家から解放されたのである。
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