カルタゴ紛争に加わる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:12 UTC 版)
「シケリア戦争」の記事における「カルタゴ紛争に加わる」の解説
紀元前540年頃、カルタゴ王マルケス(Malchus、セム語で王を意味する)は「全シケリアを占領し」略奪品をレバノンのティルスに送ったと言われるが、おそらくはフェニキア人殖民都市であるモティア、パノルムスおよびソルスがカルタゴの支配下となったことを意味すると思われる。この間にもフェニキア人都市に近いセリヌスおよびヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)は拡大を続けて要り、カルタゴとギリシア都市が全面対決していなかったことを示唆している。 このおよそ30年後、スパルタの王子ドリエウスは、3年にわたり北アフリカに殖民都市を建設するという努力を続けていたが、結局はカルタゴに阻止された。一旦スパルタに戻った後の紀元前511年、ドリエウスはエリュクス(現在のエリーチェ)近くに殖民都市を建設するためにシケリアに上陸した。対するカルタゴはエリミ人都市であるセゲスタを支援して紀元前510年にドリエウスの遠征軍を撃破した。ギリシアの残存兵はその後ヘラクレア(現在のカットーリカ・エラクレーア)を建設した。その後年代は不明だがシケリアのギリシア人(おそらくアクラガス(現在のアグリジェント)、ゲラ(現在のジェーラ)およびセリヌス)は復讐のためカルタゴ軍と戦い、ミノアは破壊されたがギリシアにも利益をもたらす条約が結ばれた。ドリエウスの死に対する復讐というアピールは、弟であるレオニダス(後にスパルタ王となりペルシャ戦争におけるテルモピュライの戦いで戦死)も含めて本土のギリシア人には無視された。このエピソードは、シケリアのギリシア殖民都市のみでカルタゴに立ち向かっても勝利は困難であること、であるにも関わらずギリシア本土からの援軍は不確実なことを示し、ギリシア殖民都市はより強力な指導者を求め、僭主が生まれるきっかけとなった。
※この「カルタゴ紛争に加わる」の解説は、「シケリア戦争」の解説の一部です。
「カルタゴ紛争に加わる」を含む「シケリア戦争」の記事については、「シケリア戦争」の概要を参照ください。
- カルタゴ紛争に加わるのページへのリンク