カルタゴの覇権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:12 UTC 版)
カルタゴの覇権は、フェニキア勢力圏に対するギリシアの侵略に対する抵抗の一環として確立された。初期(紀元前750年から紀元前650年頃)にはフェニキア人はギリシア殖民都市に抵抗していなかったが、紀元前638年以降にイベリア半島にまで殖民都市が建設されると、カルタゴが中心となってフェニキア人はギリシアへの抵抗を開始した。紀元前600年頃にマッシリア(現在のマルセイユ)沖で発生した海戦がフェニキア人とギリシア人の最初の軍事衝突であり、ギリシア側が勝利した。紀元前6世紀を通じて、マゴ家の指導の下にカルタゴは西地中海の商業を独占する帝国を建設した。シケリアのフェニキア人とエリミ人は連合し、紀元前580年に現在のマルサーラ近くでセリヌス(現在のマリネラ・ディ・セリヌンテ)およびロドス島のギリシア連合軍に勝利した。これがシケリアにおける両者の最初の戦闘の記録である。次のギリシアのシケリア侵略は70年後に発生する。
※この「カルタゴの覇権」の解説は、「シケリア戦争」の解説の一部です。
「カルタゴの覇権」を含む「シケリア戦争」の記事については、「シケリア戦争」の概要を参照ください。
カルタゴの覇権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:28 UTC 版)
シケリアのフェニキア人は、初期のギリシア勢力の拡大に対して武力を持って対抗することはなかったが、その勢力がシケリア西部のフェニキア領域にまで達すると、対応策を変えた。フェニキア人は紀元前580年にはドーリア人都市のセリヌスに対応するためにエリミ人を支援し、セリヌスのさらなる西進を阻止した。この事件におけるカルタゴの役割は不明であり、シケリアのフェニキア人はカルタゴからは独立していた可能性もある。カルタゴ王マルケス(在位:紀元前556年頃 - 紀元前550頃)は、この事件の後に「全シケリアを征服」し、ティルスに戦利品を送ったと言われている。これはおそらく、フェニキア人植民都市であるモティア、パノルムスおよびソルスが既にカルタゴの覇権下にあり、ギリシアのシケリア西部侵攻に対抗したことを暗示している。他方、マルケスがシケリアで活動していた間にもセリヌスとヒメラは拡大しており、カルタゴとシケリアのギリシア殖民都市間には紛争がなかったことも示唆している。しかしながら、カルタゴは紀元前510年にスパルタの王子であるドリエウスのシチリア遠征には対抗し、エリュクス(現在のエリーチェ)近くでスパルタ軍に勝利している。このことから、この時期にはカルタゴがシケリアのフェニキア人に対して強い影響力を持っていたことは明らかである。スパルタの残存兵士達は、ヘラクレア・ミノア(現在のカットーリカ・エラクレーア)を建設したが、この後におきた戦争でカルタゴに破壊された。この戦争がいつ発生したのかは不明であるが、その後紀元前480年に至るまでカルタゴはシケリアに介入しなかった。カルタゴはシケリアのフェニキア人殖民都市の自治を認めてはいたが、外交政策は統制し軍事支援のために税金を徴収していた。ほとんどがセゲスタに居住していたエリミ人はカルタゴと同盟関係にあり、敵対するセリヌスに対抗していた。セリヌスもまた、勃興するアクラガス(現在のアグリジェント)の脅威に対抗するため、カルタゴと同盟を結んでいた。
※この「カルタゴの覇権」の解説は、「セリヌス包囲戦」の解説の一部です。
「カルタゴの覇権」を含む「セリヌス包囲戦」の記事については、「セリヌス包囲戦」の概要を参照ください。
- カルタゴの覇権のページへのリンク