カルタゴ反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:18 UTC 版)
「メッセネの戦い (第二次シケリア戦争)」の記事における「カルタゴ反撃」の解説
紀元前405年から紀元前397年の間のカルタゴの動きはほとんど知られていない。この間にディオニュシオスはシケリアにおける自身の権力を強化し、シケル人に対して戦争をしかけることで紀元前405年の平和条約を破っていた。カルタゴは、おそらくはシケリア遠征軍が帰還した際に持ち込んだペストのために国力が低下していたと思われる。モティアが包囲され、カルタゴ支配下の多くのシケリア都市が離脱した際、カルタゴは前述の通りヒミルコ率いる艦隊を派遣したが、得たものは何もなかった。カルタゴは常備の陸軍を有しないため、十分な数の傭兵を雇用し、集結が完了するまで出来ることはなかった。陸軍の編成が完了すると、艦隊と共にシケリアへと派遣した。陸軍兵力は歩兵50,000、騎兵4,000、チャリオット400であり、海軍は三段櫂船400隻と輸送船600を有していた。 ヒミルコは出帆する際に各艦長に対して封印の施された命令を与えており、したがって正式な目的地は不明であった。カルタゴ艦隊はパノルムスに向かい、途中でレプティネス率いるギリシア艦隊と海戦が発生し、輸送船50隻(兵員5,000チャリオット200)を失ったが、他の輸送船はパノルムスに到着した。パノルムスではシケリア現地兵30,000が合流し、まずはエリュクスを占領した後にモティアに向かった。モティアの守備兵は大部分がシケル人で、指揮官の名前はビトンであったが、容易に撃破された。しかしヒミルコはモティアの再建は行わず、近傍にリルバイオンを建設することを選んだ。ヒミルコの次の目標はディオニュシオスが包囲するセゲスタの解放であったが、ギリシア軍はカルタゴ軍の接近を知ると撤退した。
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