紀元前405年の平和
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「モティア包囲戦」の記事における「紀元前405年の平和」の解説
ヒミルコが平和条約に合意した正確な理由は不明である。カルタゴ軍には再びペストが蔓延していたとの見方もある。その後の動きからして、ディオニュシオスが合意したのは、軍事力強化の時間を稼ぐためであった。 条約の内容は以下のようなものであった。 カルタゴはシケリアのフェニキア人都市(モティア、パノルムス等)に対する完全な支配権を有する。エリミ人とシカニ人の都市はカルタゴの「勢力範囲」とする。 ギリシア人は、セリヌス、アクラガス、カマリナ、ゲラに戻ることが許される。新しく建設されたテルマエ(現在のテルミニ・イメレーゼ)を含み、これらの諸都市はカルタゴに税を支払う。ゲラとカマリナの城壁の再建は許されない。 シケル人都市、メッセネ(現在のメッシーナ)およびレオンティノイに対しては、カルタゴおよびシュラクサイ双方から影響を及ぼさない。 ディオニュシオスがシュラクサイの支配者であることをカルタゴは承認する。 両軍ともに捕虜を解放し鹵獲した船舶を返却する。
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紀元前405年の平和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 10:02 UTC 版)
カルタゴ軍はシュラクサイへの攻撃は行わず、紀元前405年に両者の間で平和条約が締結された。条約が締結された理由は、以下のように推測されている。 ディオニュシオスは(噂ではなく)実際にヒミルコと連絡を取り合っており、ヒミルコの権威を認め、カルタゴに有利な平和条約を締結した。その後のディオニュシオスの経歴からみて、これは極めて可能性が高いと思われる。 カルタゴ軍には再びペストが蔓延していた。この作戦行動中、カルタゴ軍は兵力の約半数をペストで失った。この弱体化した兵力でシュラクサイと戦うより、カルタゴに有利な条件で平和条約を結ぶことを選んだ。 有利な結果が得られるまで戦いを継続した後の共和政ローマとは異なり、カルタゴはその商業活動が損なわれない限り、交渉を行いその条約を遵守する意思を持っていた。実際、第一次ヒメラの戦い以降70年間、カルタゴは条約を遵守してシケリアに介入しなかった。(逆に第三次ポエニ戦争の原因は、ローマがカルタゴの商業活動を阻害するような要求をカルタゴに突きつけたことである) 条約の内容は以下のようなものであった: カルタゴはシケリアのフェニキア人都市(モティア、パノルムス等)に対する完全な支配権を有する。エリミ人とシカニ人の都市はカルタゴの「勢力範囲」とする。 ギリシア人は、セリヌス、アクラガス、カマリナ、ゲラに戻ることが許される。新しく建設されたテルマエ(現在のテルミニ・イメレーゼ)を含み、これらの諸都市はカルタゴに税を支払う。ゲラとカマリナの城壁の再建は許されない。 シケル人都市、メッセネ(現在のメッシーナ)およびレオンティノイに対しては、カルタゴおよびシュラクサイ双方から影響を及ぼさない。 ディオニュシオスがシュラクサイの支配者であることをカルタゴは承認する。 両軍ともに捕虜を解放し鹵獲した船舶を返却する。 条約締結後、カルタゴ陸軍と艦隊はシケリアを離れた。結果、ペストも持ち込まれカルタゴは荒廃してしまった。条約は紀元前404年にディオニュシオスがシケル人に対する戦争を開始したために破棄された。カルタゴが何の報復処置もとらなかったため、ディオニュシオスの権力は拡大した。さらにディオニュシオスは、紀元前398年にはカルタゴ領であるモティアに攻撃をしかけた。
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紀元前405年の平和
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「カマリナ略奪」の記事における「紀元前405年の平和」の解説
カルタゴ軍はシュラクサイへの攻撃は行わず、紀元前405年に両者の間で平和条約が締結された。条約が締結された理由は、以下のように推測されている。 ディオニュシオスは(噂ではなく)実際にヒミルコと連絡を取り合っており、ヒミルコの権威を認め、カルタゴに有利な平和条約を締結した 。その後のディオニュシオスの経歴からみて、これは極めて可能性が高いと思われる。 カルタゴ軍には再びペストが蔓延していた。この作戦行動中、カルタゴ軍は兵力の約半数をペストで失った。この弱体化した兵力でシュラクサイと戦うより、カルタゴに有利な条件で平和条約を結ぶことを選んだ。 有利な結果が得られるまで戦いを継続した後の共和政ローマとは異なり、カルタゴはその商業活動が損なわれない限り、交渉を行いその条約を遵守する意思を持っていた。実際、第一次ヒメラの戦い以降70年間、カルタゴは条約を遵守してシケリアに介入しなかった。(逆に第三次ポエニ戦争の原因は、ローマがカルタゴの商業活動を阻害するような要求をカルタゴに突きつけたことである) 条約の内容は以下のようなものであった。 カルタゴはシケリアのフェニキア人都市(モティア、パノルムス等)に対する完全な支配権を有する。エリミ人とシカニ人の都市はカルタゴの「勢力範囲」とする。 ギリシア人は、セリヌス、アクラガス、カマリナ、ゲラに戻ることが許される。新しく建設されたテルマエ(現在のテルミニ・イメレーゼ)を含み、これらの諸都市はカルタゴに税を支払う。ゲラとカマリナの城壁の再建は許されない。 シケル人都市、メッセネ(現在のメッシーナ)およびレオンティノイに対しては、カルタゴおよびシュラクサイ双方から影響を及ぼさない。 ディオニュシオスがシュラクサイの支配者であることをカルタゴは承認する。 両軍ともに捕虜を解放し鹵獲した船舶を返却する。
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