紀元前406年以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:08 UTC 版)
ヒミルコはマゴ家の一員であるが、マゴ家は紀元前550年からカルタゴの政治に積極的にかかわり、紀元前480年までにその「帝国」をシケリア、アフリカ、イベリア半島、サルディニアにまで広げていった。紀元前480年にハミルカル1世がシケリアのヒメラの戦いで敗北した後、「王」の権力は低下し、「104人委員会」が将軍・軍人に対する裁判権を持つようになった。しかしながら、ヒミルコの時代にもマゴ家はカルタゴの外交政策には積極的に関与していた。 ヒミルコの若い頃に関しては何も知られていない。父はアフリカ西岸を探検した航海者ハンノ(ハンノ2世)と推定され、イベリア半島西部からブリテン島までを探検したヒミルコ(ヒミルコ1世)は伯父と考えられる。ハンニバル1世(ハンニバル・マゴ)、ハスドルバル1世、サッフォと同様に、マゴ家の一員であるハンノ2世、ヒミルコ1世、その兄のギスコは、カルタゴ領土を北アフリカからサルディニアに広げ、リビュアの諸部族からも朝貢金を得るようになった。しかし、ギスコはヒメラでの敗戦の責任を問われてヒメラに追放された。ハンニバル・マゴはギスコの息子であり、紀元前409年には将軍としてシケリアに遠征し、セリヌス包囲戦、第二次ヒメラの戦いに勝利し、セゲスタ(現在のセジェスタ)を臣下の都市とした。ハンニバル・マゴはこの勝利により「王」に選出されている。この遠征軍には多くのカルタゴ市民が参加したが、ヒミルコがこの遠征に加わったかは不明である。
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