紀元前415年冬――紀元前414年春
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「シケリア遠征」の記事における「紀元前415年冬――紀元前414年春」の解説
ヘルモクラテスはシュラクサイ軍の再編を提案した。彼は15人もいた将軍を3人に減らしたかった。ヘルモクラテス、ヘラクレイデス(en)、シカヌスの3人が選出され、ヘルモクラテスはコリントスとスパルタに救援を依頼した。冬の間、アテナイは軍資金と騎兵をシケリアに送り、他方シュラクサイはいくつかの砦を作り城壁を延長した。 他方、ヘルモクラテスはカマリナ(現在のラグーザ県ヴィットーリアのスコグリッティ地区)を訪れて同盟を求めたが、アテナイのアルコン(最高官)であったエウフェムスもまたカマリナとの同盟を求めた。ヘルモクラテスはカマリナとシケリアの他の都市がシュラクサイと一体となってアテナイに対抗することを望んだが、他方でエウフェムスはシュラクサイは単にカマリナを支配したいだけであり、自由を維持したければアテナイと同盟すべきと述べた。カマリナはどちらとも同盟を結ばないことを決定したが、しかし秘密裏にシュラクサイに兵を送った。 このため、アテナイはカルタゴとエトルリアに支援を求め、さらにアテナイ、シュラクサイともにイタリア半島のギリシア都市の支援を得ようとした。コリントスでシュラクサイの使節はスパルタのために働いていたアルキビアデスに面会した。アルキビアデスはスパルタに対して、もしシケリアが征服されれば、続いてアテナイはペロポネソス半島を侵略するであろうこと、したがってシュラクサイに援軍を送ると同時にアテナイ近くのデケレア(en)を占領して要塞化するように進言した。アルキビアデスは、アテナイはデケレアの占領を何よりも恐れていると述べた。スパルタはこの提言を受け入れ、ギュリッポスを遠征軍の司令官に任命した。 紀元前414年春、アテナイから騎兵300、騎乗弓兵30の援軍と300タレントの軍資金が送られてきたが、この資金は400騎以上のシケリアの同盟都市の騎兵への支払いに使われた。夏になって、アテナイ軍はディオミルスと600のシュラクサイ兵が守るエピポライ台地近くに上陸した。この攻撃でディオミルスとシュラクサイ兵300が戦死した。 アテナイ軍はエピポライ台地にラブダロン砦と「円形砦」を建て、円形砦から壁と溝を延ばし、攻城堡塁を築いてシュラクサイを封鎖しようとした。一方のシュラクサイも城壁から反撃用の対塁壁の建築を始めた。アテナイ兵300が最初の対塁壁の一部を破壊したが、シュラクサイは別の対塁壁の建設を始めた。この対塁壁は溝も併設されており、アテナイの攻城堡塁が海まで達するのを阻害した。別のアテナイ兵300がこの対塁壁を攻撃して占領したが、シュラクサイ軍は反撃しラマコスは戦死した。このため、最初に選出された3人の司令官のうち、残ったのはニキアスだけとなった。シュラクサイ軍はアテナイの攻城堡塁を約300メートルにわたって破壊したが、ニキアスが守る円形砦の破壊には失敗した。ニキアスがシュラクサイ軍の攻撃を撃退した後、アテナイ軍はついに攻城堡塁を海まで進め、シュラクサイの南方は陸上から封鎖された。さらに艦隊を湾内に入れて海上封鎖も実施した。シュラクサイはヘルモクラテスとシカヌスを解任し、ヘラクリデス、ユークレスおよびテリアスを将軍に任命した。
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