シケリア遠征
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シケリア遠征(シケリアえんせい)は、ペロポネソス戦争中の紀元前415年から紀元前413年にかけてアテナイが実施した、シケリア方面に対する軍事作戦である。
- ^ Thucydides History of the Peloponnesian War, Book 6
- ^ Thucydides History of the Peloponnesian War, Book 7
- ^ セゲスタとの条約締結時期には議論があるが、紀元前458/457年、434/433年、418/417年がその候補とされている。レオンティノイ(現在のレンティーニ)との条約が紀元前433/432年に更新されていることから、最初の条約はそれ以前に締結されたことになり、おそらく紀元前460年-439年の間と推定される。Kagan, The Outbreak of the Peloponnesian War, 154–4 and Kagan, The Peace of Nicias and the Sicilian Expedition, 159–60.
- ^ Kagan, The Archidamian War, 265
- ^ Fine, The Ancient Greeks, 476. See also Thucydides, The Peloponnesian War 3.86.
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 3.86
- ^ Fine, The Ancient Greeks, 476–8.
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 4.1–9
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War 4.65
- ^ Kagan, The Peace of Nicias and the Sicilian Expedition, 133.
- ^ Kagan, The Peace of Nicias and the Sicilian Expedition, 143.
- ^ Kagan, The Peace of Nicias and the Sicilian Expedition, 146–7. 紀元前417年、アテナイで陶片追放が実施された。しかし、アルキビアデスとニキアスは、より勢力の弱い政治家Hyperbolusの追放を確実なものとするために彼らの兵力を合流させており、これ以来、彼ら二人のうちどちらかを追放することはあり得なくなった。
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 5.4. See also Diodorus Siculus, Library 12.54
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 5.4
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War 6.6
- ^ a b Thucydides, The Peloponnesian War, 6.8
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.46
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.9
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.10–14
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.16–18
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.20–24
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.25–26
- ^ Kagan, The Peace of Nicias and the Sicilian Expedition, 191.
- ^ a b Kagan, The Peace of Nicias and the Sicilian Expedition, 170–171.
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.47
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.48
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.49.
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.42.
- ^ Thucydides, The Peloponnesian War, 6.43.
- ^ NASA – Lunar Eclipses of History
シケリア遠征
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スパルタに戻ったドリエウスは、シケリア(シチリア)に植民都市を建設するという新しい計画を考えた。ヘロドトスによると、ドリエウスは、シケリアに向かう途中、南イタリアのギリシア植民都市であるシバリス(en)のクロトーン(現在のクロトーネ)占領(紀元前510年)に加わっていたようである。 スパルタ人は、シケリアに上陸するとシケリア西部のエリュクスの近くに、ヘラクレアと呼ばれる植民都市を建設しようとした(南岸のミノア近くとの説もある)。しかしながら、シケリア西部に居住していたカルタゴ人とセゲスタ(現在のセジェスタ)は連合し、ドリエウスとその軍を打ち破った。ドリエウスと指揮官クラスのスパルタ人はほとんどが戦死した。 ヘロドトスは、クレオメネスには子をもうけずに早死にしたため、もしドリエウスがスパルタを離れずにいたらやがてはスパルタ王になれたであろうと述べている。ドリエウスが戦死していたために、弟のレオニダスが王位を継ぎ、ペルシア戦争の英雄となった。
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シケリア遠征
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詳細は「シケリア遠征」を参照 アルキビアデスはクレイニアスとディノマケーの子供として生まれた。 アルキビアデスが活躍した時代は、ペロポネソス戦争である。ペロポネソス戦争では、ペリクレスの提唱した籠城作戦が通用しなくなり(スパルタが遠征するようになり、補給路が絶たれるおそれがあった)、新たな局面を迎えていた。ペリクレスは疫病で死亡してしまったので、彼以外の有力な政治家たちが次の手を考えねばならなかった。 アルキビアデスの政敵でもあるニキアスが停戦を提唱し、紀元前421年のニキアスの和約によってアテナイ率いるデロス同盟とスパルタ率いるペロポネソス同盟は講和することになった。しかし、主戦論を唱えるアルキビアデスはそれを破って再び戦争を再開させ、同盟国を助けに行くとの名目でシケリア全土を支配下に置くべくシケリア遠征を提案し、ニキアスと共に二人の司令官の一人として参加した。
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シケリア遠征
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「デモステネス (将軍)」の記事における「シケリア遠征」の解説
詳細は「シケリア遠征」を参照 紀元前415年のアテナイのシケリア(シチリア)侵略 (Sicilian Expedition) の後、スパルタ艦隊が同盟者であるシュラクサイ(シラクサ)を補強するために来援し、その後はこう着状態が続いた。紀元前414年、アテナイはシケリア遠征の増援部隊として、デモステネスとエウリュメドンを、新たに仕立てた73隻の艦船と5,000人の重装歩兵からなる艦隊とともに送り出した。デモステネスは自軍を上陸させると、大胆にもシュラクサイ勢に夜襲を仕掛けた。この攻撃は最初はうまくいったが、やがてアテナイ勢の統率は乱れて大混乱の夜戦となり、遂にはギュリッポス (Γύλιππος、Gylippus) が率いたスパルタ軍に壊滅的な敗北を喫した。 この敗戦の後、アテナイ陣営に疫病が広まりつつあるのを見て取ったデモステネスは、直ちに攻城戦を断念して、アテナイへ帰還し、アッティケーへ侵攻してきたスパルタ勢に対抗すべきだと提案した。遠征軍の総司令官だったニキアス (Νικίας、Nicias) は、当初はこの提案を拒んだが、そうこうしているうちにスパルタの増援部隊が到着し、遂には提案を呑んだ。ところが、撤退の準備をしているうちに月食が起き、これを凶兆と考えて出発は繰り延べられた。この遅れのためにシュラクサイとスパルタの連合軍は、港にアテナイ勢を封じ入れ、これに続いた戦闘でエウリュメドンは討ち死にした。 スパルタ軍に追い込まれたアテナイ軍の戦闘部隊は再び上陸せざるを得なくなった。デモステネスは、船で逃れることができるのではないかと考えていたが、ニキアスは上陸することを望んだ。再上陸後、数日間の行軍を経て、デモステネスとニキアスは軍勢を分けて別行動をとった。デモステネスはシュラクサイ勢の待ち伏せに遭い、降伏を余儀なくされた。その後、間もなくニキアスも捕らえられた。ギュリッポスは、デモステネスとニキアスを捕虜としてスパルタへ連れ帰ろうと考えており、両者を殺さないよう命令していたが、この命令に反して2人は処刑された。
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シケリア遠征 (紀元前278年-紀元前275年)
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「ピュロス戦争」の記事における「シケリア遠征 (紀元前278年-紀元前275年)」の解説
ピュロスはシケリアへ渡り、島の東部・南部のギリシア植民都市の指導者となり、島の東部を支配するカルタゴと戦うこととなった。カルタゴとギリシア植民都市の間には長年の紛争が続いていた(シケリア戦争)。ピュロスのシケリアでの作戦に関しては、シケリアのディオドロス(紀元前1世紀の歴史家)の『歴史叢書』の22巻に完全で無いが詳しく残されている。プルタルコスの記述は、ピュロスとシケリアのギリシア都市の関係に関して簡単に述べるに留まっている。ハリカルナッソスのディオニュシオスの断片にも両者の関係が記述されている。アッピアノスの断片はピュロスがシケリアに向かう前後のみで、カッシウス・ディオの断片にはほとんど記載が無い。 プルタルコスによると、この頃ピュロスは二つの支援要請を受けていた。一つはシケリアからで、アクラガス(現在のアグリジェント)、シュラクサイ、レオンティノイ(現在のレンティーニ)の市民達からで、カルタゴの駆逐と各都市の僭主の追放を願い出ていた。もう一つはマケドニアからであり、紀元前279年にマケドニアにガリア人が侵入し、マケドニア王プトレマイオス・ケラウノスは捕虜になった上に斬首されていた。ピュロスはシケリアを選んだ。シケリアはアフリカに近く、プルタルコスはピュロスがカルタゴ本国の征服も狙っていたと書く。彼は交渉のためにキネアスをシケリアに派遣したが、自身はターレスに留まっていた。ターレスはこれに不満であり、ローマとの戦争を再開するか、ターレスを去るか要求した。ターレス市民はピュロスが去ることにより、その僭主的な支配が終わることを望んでいた。ピュロスは返答もせずにターレスを去った。 アッピアノスはピュロスがイタリアよりもシケリアにより懸念を有するようになったと述べている。その理由はシュラクサイの僭主であり、シケリア全土の王と自称していたアガトクレスが没したばかりで、ピュロスの妻のラナッサ(en)はアガトクレスの娘であったからである。しかし、アッピアノスは混乱していると思われる。アガトクレスの死は紀元前289年のことであり、ピュロスのイタリア遠征の9年前、シケリア遠征の11年も前のことである。さらに、ラナッサは紀元前291年にピュロスと離婚している。アッピアノスによれば、ピュロスはイタリアに平和を樹立できずにシケリアに渡るのは不本意であったと述べている。彼はキネアスを再度ローマに送り交渉を行わせた。しかしローマの回答は同じであった。ローマはターレスやイタリック人の捕虜を返還した。アッピアヌスは休戦があったとしている。その後ピュロスは8,000の騎兵と戦象を率いてシケリアへ向かった。同盟国に対しては、必ずイタリアに戻ると約束していた.。ピュロスはターレスの防衛のためにミロを残した。ユスティヌスによると、ロクリス(現在のロクリ)の防衛のために、アレクサンドロスという将軍を残した。 プルタルコスは、シュラクサイの指導者であるトエノンとソシストラトスが最初にピュロスをシケリアにくるように促したと言う。両者は内紛中であったが、ディオロドロスはトエノンはオルティギア島(シュラクサイ旧市街)を支配し、ソシストラトスはシュラクサイの他の部分を押さえていたと書く。彼らは10,000の兵力を有し、お互いに戦ってきた。しかし両者共に戦いに倦み、ピュロスに使節を送った。ピュロスが出航の準備をしている間に、カルタゴ軍がシュラクサイを包囲した。艦隊を派遣して、港の封鎖も行った。城壁の近くでも活動し、50,000の兵を持って郊外を略奪した。シュラクサイはラナッサがピュロスとの妻であったこともあり、ピュロスに希望を託した。ピュロスはターレスを出航し、途中ロクリスに停泊した。 メッセネを不当に占拠していたマメルティニはカルタゴと同盟し、ピュロスがメッシーナ海峡を渡るのを阻止した。このため、ピュロスはメッセネにもシュラクサイにも上陸出来なかった。しかしティンダリオン(現在のティンダリ)、タウロメニオン(現在のメッセネ南のタオルミーナ)はピュロスと同盟し、彼の軍を彼らの都市に受け入れた。ピュロスはここで兵を受け取り、カタナ(現在のカターニア)に上陸した。彼はカタナ市民に歓迎され、そこで兵士を下船させた。その側面を艦隊に守らせつつ、陸路をシュラクサイに進軍した。他の作戦のためにカルタゴ艦隊の数が減っていたいこともあり、ピュロスが近づくとカルタゴ軍は撤退した。 ピュロスはオルティガ島をトエノンから、他の地域をソシストラトスとシュラクサイ市民から受け取った。ピュロスはシュラクサイの支配者になっただけでなく、ソシストラトスがアクラガスとその他の都市の僭主であったために、10,000以上の兵を加えることになった。ピュロスはトエノンとソシストラトス、さらにはシュラクサイ市民の間を調停し、調和が実現した。この平和を実現させたため、市民の間でピュロスの人気は上昇した。ピュロスはシュラクサイの軍備と140隻の艦船を自軍に加えた。いまやピュロスは200隻の船団を持つこととなった。ハリカルナッソスのディオドロスは、ソシストラトスがシュラクサイの支配者で、トエノンが守備兵の司令官であると書いている。両者は国庫からの資金と200隻の艦船をピュロスに提供した。ディオドロスによると、レオンティノイの僭主は都市とその4,000の歩兵、500の騎兵を提供した。また、他の都市も同様の行いをした。カルタゴ側の都市であったエンナも、カルタゴの守備兵を追放し、街をピュロスに提供することを約束した。ピュロスはアクラガスへ行き、そこを接収し歩兵8,000と騎兵800を加えた。最終的にはソシストラトスが支配していた30以上の都市がピュロスに加わり、攻城兵器と投擲兵器も引き渡された。 ディオドロスによると、ピュロスはカルタゴ支配下の地域に歩兵30,000、騎兵1,500をで侵攻した。プルタルコスによると、ピュロスの兵力は歩兵30,000、騎兵2,500、艦船200であった。ディオドロスは、ピュロスがヘラクレア・ミノアのカルタゴ守備隊に勝利し、アゾネスを包囲したことにも触れている。セリヌス、ハルキアエ(現在のサレーミ)、セゲスタや他の幾つかの都市がピュロス側についた。また、カルタゴの拠点の一つであるエリュクスを包囲した。包囲は長期間続いたが、最後には強襲によって陥落させた。エリュクスに守備兵を残すと、イエタス(現在のサン・ジュゼッペ・イアート)を攻撃した。イエタスはシケリア最良の港であるパノルムス(現在のパレルモ)攻略するために最良の拠点であった。イエタスは戦うことなく降伏した。パノルムスも強襲によって陥落した。ピュロスは今やリリュバイオン(現在のマルサーラ)を除き、シケリアの全カルタゴ領を占領した。ピュロスはリリュバイオンを包囲したが、カルタゴはアフリカから海路大軍と補給物資を搬送した。さらには都市の防御も強化した。プルタルコスはピュロスのシケリア遠征に関しては簡素に記述しているだけであり、カルタゴ領を占領し、エリュクスを陥落させたあと、メッセネを占拠するマメルティニに向かったとしている。マメルティニはシケリアのギリシア都市にとっては迷惑な存在で、いくつかの都市は貢納金を支払っていた。ピュロスはマメルティニの貢納金徴収員を捕らえ、処刑した。戦闘でも勝利し、いくつもの防衛拠点を破壊した。プルタルコスはリリュバイオン包囲戦のことは書いておらず、逆にディオドロスは対マメルティニ戦には触れていない。 プルタルコスもディオドロスもカルタゴがピュロスとの交渉を開始したとする。カルタゴは多額の賠償金を提示した。プルタルコスはカルタゴは船の提供も申し出たという。ディオドロスによるとピュロスは金の受け取りは拒否したが、カルタゴのリリュバイオン保有は認めようとした。しかしながら、彼の友人たちとギリシア都市の代表達は、カルタゴがリリュバイオンをシケリア侵略の踏み石として使うことを認めるべきでなく、カルタゴ人を駆逐して海を国境とすべきであると説いた。プルタルコスは彼の友人やギリシア都市の代表が彼の考えを変えたという記述はしていない。ピュロスはカルタゴの講和提案を拒否したが、これは「エペイロスを出立したときの野望のとおり、リビュアに心を向けた」ためとしている。言い換えると、ピュロスはギリシア人がリビュア、ローマ人がアフリカと呼ぶカルタゴの征服を欲していた。ディオドロスによると、この交渉はリリュバイオンの包囲中に行われた。交渉決裂後、ピュロスは城壁近くで小競り合いを行った。カルタゴ軍は大軍であり、また城壁には大量の投石機が備え付けられていたため、効果的に抵抗した。多くの兵が戦死し、ピュロスは不利な立場に陥った。ピュロスは、シュラクサイから輸送してきたものよりも、さらに強力な攻城兵器の作製を開始した。しかし、地面がゴツゴツしていることもあり、カルタゴ軍の抵抗は続いた。2ヶ月間の包囲の後、ピュロスは包囲を解いた。ピュロスはその努力をアフリカ遠征のための船団建造に移した。 プルタルコスは、ピュロスの船の多くは乗員が不足しており、漕ぎ手を集めることが必要であったと述べる。ピュロスはシケリアのギリシア都市を公平な同盟者として取り扱うことを止め、資金の提供を強要し、専制的な支配を行うようになった。ピュロスはもはや人気のある指導者ではなかった。彼は「忘恩で信用の出来ない」僭主として知られた。それでもシケリアのギリシア人たちは、当初はこれを耐え忍んだ。しかし、彼をシケリアに呼び、またその後も大きな貢献をしていたソシストラトスとトエノンを、ピュロスが疑い始めると、事態は変化した。ソシストラトスはピュロスの疑いを恐れ、頭を低くしていた。ピュロスはソシストラトスと共謀してトエノンを訴え、処刑した。ハリカルナッソスのディオニュシオスは、ピュロスのこのような行為を幾つかあげている。ピュロスはかつてのシュラクサイの僭主アガトクレスが彼の親族や友人に与えていた資産を奪い取り、彼の友人たちに分け与えた。各都市のトップに彼の配下の軍人を配した。いくつかの裁判や行政をピュロス自ら行ない、その他の裁判は他人にまかせたが、彼らは自身の権力と贅沢にしか興味が無いような人物であった。カルタゴからの防衛を口実にして、部隊を駐屯させた。また著名な市民を捕らえ、反逆の罪を着せて処刑した。その一人がトエノンであった。ピュロスはソシストラトスも逮捕しようとしたが、彼はその前に脱出した。 ピュロスのこのような行動は、ギリシア都市に憎しみを引き起こした。プルタルコスによると、幾つかの都市はカルタゴ側に付き、またマメルティニに救援を求める都市もあった。ピュロスがギリシア都市の反抗と反乱に直面していたとき、ターレスとサムニウムから一通の書簡が届いた。サムニウムはその郊外から追い出され、その都市の防衛にも困難を感じるようになってきたため、ピュロスに支援を求めてきたのである。ピュロスはすでにシケリアの統治能力を失っていたが、逃げ出すのでなく、シケリアを離れる良い口実を手に入れた。プルタルコスは、ピュロスがシケリアを離れる際に「友人たちよ、我々が残していくのはカルタゴとローマの闘争の場である!」と述べたと言う。後のポエニ戦争を予言する言葉ではあるが、古代の歴史家は偉人のスピーチを創作することが多いため、実際にピュロスがこのような発言をしたのかは不明である。カッシウス・ディオはピュロスの軍の兵力は少なく、またシケリアのギリシア人からの信頼を失っていることを知ると、カルタゴは「戦争を活発に行うようになった」と記している。カルタゴはシュラクサイから追放された人々を保護し、ピュロスがシュラクサイからだけでなくシケリアから撤退する際に、激しい嫌がらせ攻撃をかけた。ハリカルナッソスのディオニュシオスは、一旦は失った都市を奪回する良い機会と見て、カルタゴはシケリアに軍を送り込んだと書いている。ピュロスがシケリアを去ると、カルタゴはシケリア西部の支配を回復した。
※この「シケリア遠征 (紀元前278年-紀元前275年)」の解説は、「ピュロス戦争」の解説の一部です。
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