シケリア・ギリシア人の復活とエリミ人の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:16 UTC 版)
「セゲスタ包囲戦」の記事における「シケリア・ギリシア人の復活とエリミ人の衰退」の解説
シケリアのギリシア人都市が政治的に安定し、財政的にも豊かになると(その一部は海外と交易による)、いくつかの都市は勢力拡大を試み始めた。シュラクサイはエトルリア人に対して略奪のための遠征隊を2回送り、紀元前454年にはコルシカ島とエルバ島でのエトルリア人の支配力は一時的に低下した。紀元前459年頃から、ドゥケティオスはシケル人を統一してギリシア人に対抗しようとし、シュラクサイとアクラガスは紀元前440年まで、その対応に忙殺された。シュラクサイとアクラガスは、紀元前445年に小さな衝突を起こした。他のシケリアの都市も分裂し、アクラガスは敗れて講和した。シュラクサイは紀元前439年頃には、三段櫂船100隻を建造し、騎兵を倍増し、歩兵を再編するなど、大規模な軍事行動の準備を開始した。おそらくは全シケリアの征服が目的であったと思われる。しかし、その対抗策として、他のシケリア都市はアテナイに支援を求めたが、エリミ人は意図的にか、あるいはそうできなかったのかは不明だが、アテナイの支援を求めなかった。 アテナイは紀元前454年のセゲスタの救援依頼を無視したが、アテナイ自身は西地中海に関心を持っており、紀元前443年にはマグナ・グラエキアにスリー(en、現在のコゼンツァ県シバリ)を建設する支援を行っており、紀元前433年にはイオニア人都市であるレギオンとレオンティノイ(現在のレンティーニ)と同盟を結んでいる。アンフィポリスから来たアテナイ市民であるユークテモン(en)は西地中海のペリプルス(周回記)を記し、アテナイの政治家は(西地中海を支配している)カルタゴに対して取り得る政策を議論していた。紀元前431年にペロポネソス戦争が始まると、アテナイに敵対するスパルタとコリントスは、マグナ・グラエキアのドーリア人都市に対し、軍船500隻を準備するよう依頼した。しかし、紀元前427年に至るまで、ギリシア本土にマグナ・グラエキアからの支援艦隊は送られなかった。このため、アテナイはシケリア介入に駆り立てられ、さらには紀元前409年のカルタゴ介入につながって行く。
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