シケリアおよびギリシアの歴史への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 09:34 UTC 版)
「ゲロン (シュラクサイの僭主)」の記事における「シケリアおよびギリシアの歴史への影響」の解説
ゲロンのギリシアに対する、より明確にはシケリアに対する第一の貢献は、シュラクサイをその首都とし、「西部最大のギリシア都市」に変えたことである(紀元前415年頃の人口は25万人程度でアテナイに匹敵した)。シュラクサイの立地条件もその役割に最適であった。シュラクサイはオルティージャ島に建設され、シケリア本島の半島と地峡でつながっていた。イオニア海を隔てた東側にはギリシア本国があり、良い港を持っていた。 ゲロンは本島のアクラディナ要塞から海にかけて城壁を築き、シュラクサイを難攻不落とした。また、これまでシケリアでは実施されたことはなかった手法であったが、占領した都市から裕福な市民を移住させ、シュラクサイの富を増やした。ギリシア劇場を建設して街の文化レベルを上げ、ヒメラの勝利の後には華麗なアテーナー神殿を建設した。これらはシュラクサイの歴史に長い間影響を与えた。後年のローマ帝国やビザンチン帝国にとっても重要な拠点であり続け、現在でもシチリアおよびイタリアの歴史において重要な都市である。 ゲロンのもう一つの功績はヒメラの戦いでのカルタゴに対する勝利である。戦いの時期、場所ともに極めて重要であった。もしもハミルカルがゲロンとテロンが率いるシケリアの大軍に勝利していたとすれば、もしそれを望んだ場合にはシケリア全体をカルタゴが征服できたであろうことはほとんど疑いない。ペルシアとの戦いのために、ギリシア本土から援軍を送ることは不可能であったであろう。多くの歴史家が信じていることであるが、ペルシアとカルタゴ両軍は連絡をとっており、ゲロンがヒメラで敗北したならば、ギリシア本土もペルシアとカルタゴに挟み撃ちにされたであろう。その場合は、ギリシア文化は消滅したと思われる。しかし実際には紀元前480年にハミルカルに勝利したことにより、ゲロンはシケリアをカルタゴの脅威から解放し、次の70年間カルタゴはシケリアに侵攻しなかった。 ゲロンはその配下の市民から、少なくともヒメラの戦いの勝利に対して、尊敬を受けていた。彼の死後、公共の支出によって彼の墓と像が作られた。 征服した都市の住民を手荒く取り扱ったにも関わらず、尊敬される僭主としての彼の評判は時を経ても残った。彼の死から150年後にティモレオンがシケリアに民主政を導入するために過去の僭主の記憶を全て消し去ろうとした際に、ゲロンの像は残されたことが、彼のシケリアに対する大きな影響を物語っている。
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