ハミルカル
ハミルカル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:16 UTC 版)
「傭兵の乱 (カルタゴ)」の記事における「ハミルカル」の解説
紀元前240年のいずれかの時点で、カルタゴ人はより小規模の、およそ1万人からなる軍を新たに集めた。反乱側からの逃亡者、2,000人の騎馬部隊、70頭の象を含むものであった。これらが第一次ポエニ戦争の最後の6年間に、シチリア島でカルタゴ軍を指揮していたハミルカルの指揮下に置かれた。反乱軍はスペンディウス(英語版)が指揮する1万人をもって、バグラダス川の戦線を維持していた。ハミルカルは作戦機動が可能となる開けた土地に出るため、川を押し通る必要があった。彼は軍略(英語版)をもってそれを行い、スペンディウスは反乱軍が再開していたウティカの包囲に参画中の軍勢から、追加の1万5000人の増援を受けた。2万5000人の反乱軍が、バグラダス川の戦い(英語版)においてハミルカルを攻撃するため移動した。それに続いた出来事は不明確である。おそらくハミルカルは後退を装い、反乱軍は戦列を崩して追撃し、カルタゴ軍は整然と向き直って反撃を仕掛け、反乱軍を潰走させて、相手の方は8,000人の損失を被った。 ハミルカルはハンノとともにカルタゴ軍の共同司令官に任命されたものの、2名の間に協調は存在しなかった。ハンノがヒッポ近傍でマトス(英語版)に対して動く間に、ハミルカルは反乱側に組した様々な街や市と対峙し、外交と強圧を様々に織り交ぜて相手をカルタゴへの忠誠に復帰させた。規模で上回る反乱軍部隊の追跡を受けたものの、相手の方はハミルカルの騎馬部隊や象を恐れて起伏のある地を辿り、彼の徴発隊や斥候隊を襲っていた。ウティカの南西でハミルカルは、配下の軍を山間部に移動させて反乱軍を戦闘に引き込もうと試みたが、包囲下に陥った。シチリアでハミルカルに仕えて彼に私淑していたヌミディア人指導者ナラバス(英語版)が、配下の騎馬部隊2,000人とともに帰参先を変えてようやく、カルタゴ軍は殲滅から救われた。これが反乱軍には大災厄となり、続く戦闘で彼らは1万人の戦死者、4,000人の捕虜という損失を被った。
※この「ハミルカル」の解説は、「傭兵の乱 (カルタゴ)」の解説の一部です。
「ハミルカル」を含む「傭兵の乱 (カルタゴ)」の記事については、「傭兵の乱 (カルタゴ)」の概要を参照ください。
- ハミルカルのページへのリンク