第一次シケリア戦争
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「ハミルカル1世」の記事における「第一次シケリア戦争」の解説
シケリアはカルタゴにとって玄関前の階段のような場所に位置しており、紛争の舞台となった。古い時代から、ギリシア人もフェニキア人もこの大きな島に魅了され、その沿岸沿いに多くの植民都市と交易拠点を建設していた。何十年もの間、これら植民都市間で小さな戦争が繰り返されていた。カルタゴは、少なくとも、紀元前580年と紀元前510年(スパルタの王子ドリエウスの活動)のギリシアのシケリア西部侵入には対応しており、ディオドロスによると両者の戦争でヘラクレアが破壊された。 シケリア西部のカルタゴ領都市としては、モティア、パノルムス(現在のパレルモ)およびソルスがあった。紀元前490年までに、カルタゴはギリシア都市であるセリヌス、ヒメラおよびザンクル(現在のメッシーナ)と条約を結んでいた。シュラクサイの僭主ゲロンは、他のギリシア都市の支援も受け、紀元前485年からシケリアのギリシア植民都市を統合しようとしていた。アクラガス(現在のアグリジェント)の僭主で、ゲロンの義理の父であるテロンが、紀元前483年にヒメラの僭主テリルスを追放すると、カルタゴはテルリスの義理の父であるレギオン(レッジョ・ディ・カラブリア)に僭主アナクラシスの要請を受け入れて、これに介入することを決断した。 ハミルカルは、3年の準備期間をかけてカルタゴの歴史上最大の海外遠征軍を組織し、シケリアに向かって出帆した。この遠征はペルシア帝国のクセルクセス1世によるギリシア本土侵攻(ペルシア戦争)と同時期に行われたため、カルタゴとペルシアが同盟していたのではないかとの見方もあるが、それを裏付ける資料はない。航海途中にカルタゴ艦隊は嵐に遭遇し、上陸した陸軍も第一次ヒメラの戦いでゲロンが指揮するヒメラ、アクラガス、シュラクサイ連合軍に敗北、ハミルカルも戦死した。カルタゴはギリシア側と講和条約を結び、賠償金として銀2000タレントを支払ったが、シケリアの領土は失わなかった。
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第一次シケリア戦争
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カルタゴは海賊や他国が恐れる強力な海軍力を有していた。カルタゴの進出と覇権の拡大は、地中海中央部で確固たる勢力をもつギリシアとの対立を増大させた。カルタゴの玄関口にあたるシケリア(シチリア島)が、戦争の舞台となった。ギリシアやフェニキアは、以前よりこの大きな島の重要性を認識しており、海岸線に沿って多くの植民都市や交易拠点を造っていた。 紀元前540年頃にはシチリア西半分の領有権を巡り、エトルリア人と組んで、ギリシアおよびサルデーニャ人とアレリア沖(コルシカ)で海戦を行い勝利を収めたことが碑文に残されている。また、それ以外にもギリシアやシチリアとは長らく係争が絶えなかったとされる。 紀元前480年、カルタゴが大規模な軍事行動を開始した。事の発端は、ギリシアに支援されたシュラクサイ(シラクサ)の僭主ゲロンが、島を統一しようとしたことに始まる。この明白な脅威に対して、カルタゴはアケメネス朝と連携をとりながら、ギリシアとの戦争に踏み切った。ハミルカル将軍のもと、三十万人の軍隊が集められたといわれているが、この数字は大軍を示しているだけで実数ではないと考えられる。 しかし、シチリア島に向かう途中、悪天候に見舞われ、多数の人員を失った。その後、現在のパレルモにあたるパノルムスに上陸したが、ハミルカルは、第1次ヒメラの戦いでゲロンに大敗してしまった。ハミルカルは、戦闘の最中に戦死したか、名誉の自決を遂げたと伝えられている。カルタゴは、この敗北により大損害を受け弱体化し、国内では貴族政が打倒され共和政に移行した。
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第一次シケリア戦争(紀元前480年)
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「シケリア戦争」の記事における「第一次シケリア戦争(紀元前480年)」の解説
紀元前483年にテロンがヒメラの僭主テリルスを追放した。ゲロンとテロンの同盟は、全シケリアを制覇しかねないため、カルタゴはこれを無視することはできなかった。またテリルスはレギオンのアナクシラスを頼ったが、アナクシラスとカルタゴ王ハミルカル1世は賓客関係にあった。このため、紀元前480年にカルタゴはシケリアへ遠征軍を派遣した。 カルタゴの決断は、アケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世がギリシア本土を攻撃したことも影響していると思われる。フェニキアはペルシアの属国となっていたが、カルタゴとペルシアの間に同盟関係があったかは議論の対象となっている。カルタゴは大きな理由なくして自身の戦争に外国勢力が介入することも、外国の戦争に介入することも好まなかったからである。しかし、シケリアの支配権を得ることは十分な価値があった。カルタゴは戦争を望み、ハミルカルの下、カルタゴ史上最大の軍隊が編成された。従来カルタゴ軍の兵力は300,000とされていたが、実際にはこの数字は疑わしく、現実には50,000から100,000程度であったと思われる。もしカルタゴがペルシアと同盟していたとすれば、ペルシアはカルタゴに傭兵部隊を提供したと思われるが、しかしそれを裏付ける証拠はない。 シケリアへの航海途中、おそらくは荒天のためにカルタゴは多くの艦船を失ってしまった。パノムルス(カルタゴではジズと呼んでいた)に上陸した後、ハミルカルは第一次ヒメラの戦いでゲロンに敗北した。この戦いはサラミスの海戦と同日に発生したとされている。 ハミルカルは戦死したか、敗北の責任をとって自決した。この敗北はカルタゴの政治的・経済的形勢を変えた。それまでの支配層であった富裕貴族の力が低下し、共和政が導入された。王政は維持されたが(名目上は紀元前308年まで王政が続いた)、その権力は極めて限定され、元老院が権力を握った。カルタゴはギリシアに2,000タレントの賠償金を支払い、以降の70年間シケリアに介入しなかった。 但し、この敗北にも関わらず、カルタゴはシケリア西部の領土を失わず、ギリシア側も領土の拡大はできなかった。ゲロンはカルタゴの同盟都市であるレギオンとセリヌスを攻撃しなかった。戦利品からの利益はシケリアにおける公共建物の建設に使われ、結果としてギリシア文化が広がった。交易によりギリシア殖民都市は繁栄し、アクラガスの富はシバリス(en、イタリア半島の有力なギリシア殖民都市)に匹敵するものとなった。紀元前478年にゲロンが死亡すると、続く20年間の間に各都市は僭主制を停止し、シュラクサイ・アクラガス同盟は寡頭制・民主制を採用する11の反目する連合体に分裂した。これらの都市間の紛争と一部都市の拡張主義が、第二次シケリア戦争の原因となった。
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