第一次シケリア戦争とは? わかりやすく解説

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第一次シケリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 17:09 UTC 版)

ハミルカル1世」の記事における「第一次シケリア戦争」の解説

シケリアカルタゴにとって玄関前の階段のような場所に位置しており、紛争舞台となった。古い時代から、ギリシア人フェニキア人もこの大きな島に魅了され、その沿岸沿いに多く植民都市交易拠点建設していた。何十年もの間、これら植民都市間で小さな戦争繰り返されていた。カルタゴは、少なくとも、紀元前580年紀元前510年スパルタ王子ドリエウス活動)のギリシアシケリア西部侵入には対応しており、ディオドロスによると両者戦争ヘラクレア破壊された。 シケリア西部カルタゴ都市としては、モティアパノルムス現在のパレルモ)およびソルスがあった。紀元前490年までに、カルタゴギリシア都市であるセリヌスヒメラおよびザンクル(現在のメッシーナ)と条約結んでいた。シュラクサイ僭主ゲロンは、他のギリシア都市支援も受け、紀元前485年からシケリアギリシア植民都市統合しようとしていた。アクラガス現在のアグリジェント)の僭主で、ゲロン義理の父であるテロンが、紀元前483年ヒメラ僭主テリルス追放すると、カルタゴはテルリスの義理の父であるレギオンレッジョ・ディ・カラブリア)に僭主アナクラシス要請受け入れて、これに介入することを決断したハミルカルは、3年準備期間をかけてカルタゴ歴史上最大海外遠征軍を組織しシケリア向かって出帆した。この遠征ペルシア帝国クセルクセス1世によるギリシア本土侵攻ペルシア戦争)と同時期に行われたため、カルタゴペルシア同盟していたのではないかとの見方もあるが、それを裏付ける資料はない。航海途中カルタゴ艦隊は嵐に遭遇し上陸した陸軍第一次ヒメラの戦いゲロン指揮するヒメラアクラガスシュラクサイ連合軍敗北ハミルカル戦死したカルタゴギリシア側と講和条約を結び、賠償金として銀2000タレント支払ったが、シケリア領土は失わなかった。

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第一次シケリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 05:00 UTC 版)

カルタゴ」の記事における「第一次シケリア戦争」の解説

カルタゴ海賊他国恐れ強力な海軍力有していた。カルタゴ進出覇権拡大は、地中海中央部確固たる勢力をもつギリシアとの対立増大させた。カルタゴ玄関口にあたるシケリアシチリア島)が、戦争舞台となったギリシアフェニキアは、以前よりこの大きな島の重要性認識しており、海岸線沿って多く植民都市交易拠点造っていた。 紀元前540年頃にはシチリア西半分領有権巡りエトルリア人組んでギリシアおよびサルデーニャ人とアレリア沖(コルシカ)で海戦行い勝利を収めたことが碑文残されている。また、それ以外にもギリシアシチリアとは長らく係争絶えなかったとされる紀元前480年カルタゴ大規模な軍事行動開始した事の発端は、ギリシア支援されシュラクサイシラクサ)の僭主ゲロンが、島を統一しようとしたことに始まる。この明白な脅威に対してカルタゴアケメネス朝連携をとりながら、ギリシアとの戦争踏み切ったハミルカル将軍のもと、三十万人軍隊集められたといわれているが、この数字大軍示しているだけで実数ではないと考えられる。 しかし、シチリア島に向かう途中悪天候見舞われ多数人員失ったその後現在のパレルモにあたるパノルムス上陸したが、ハミルカルは、第1次ヒメラの戦いゲロン大敗してしまった。ハミルカルは、戦闘最中戦死したか、名誉の自決遂げた伝えられている。カルタゴは、この敗北により大損害を受け弱体化し国内では貴族政打倒され共和政移行した

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第一次シケリア戦争(紀元前480年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:12 UTC 版)

シケリア戦争」の記事における「第一次シケリア戦争(紀元前480年)」の解説

紀元前483年テロンヒメラ僭主テリルス追放したゲロンテロン同盟は、全シケリア制覇しかねないため、カルタゴはこれを無視することはできなかった。またテリルスレギオンアナクシラス頼ったが、アナクシラスカルタゴハミルカル1世賓客関係にあったこのため紀元前480年カルタゴシケリア遠征軍派遣したカルタゴ決断は、アケメネス朝ペルシアクセルクセス1世ギリシア本土攻撃したことも影響していると思われるフェニキアペルシア属国となっていたが、カルタゴペルシアの間に同盟関係あったか議論対象となっている。カルタゴ大きな理由なくして自身戦争外国勢力介入することも、外国戦争介入することも好まなかったからである。しかし、シケリア支配権を得ることは十分な価値があった。カルタゴ戦争望みハミルカルの下、カルタゴ史上最大軍隊編成された。従来カルタゴ軍兵力300,000とされていたが、実際にはこの数字疑わしく現実には50,000から100,000程度であった思われる。もしカルタゴペルシア同盟していたとすればペルシアカルタゴ傭兵部隊提供した思われるが、しかしそれを裏付ける証拠はない。 シケリアへの航海途中おそらくは荒天のためにカルタゴ多く艦船失ってしまった。パノムルス(カルタゴではジズ呼んでいた)に上陸した後、ハミルカル第一次ヒメラの戦いゲロン敗北した。この戦いサラミスの海戦同日発生したとされている。 ハミルカル戦死したか、敗北責任をとって自決した。この敗北カルタゴ政治的経済的形勢変えたそれまで支配層であった富裕貴族の力が低下し共和政導入された。王政維持されたが(名目上紀元前308年まで王政続いた)、その権力極めて限定され元老院権力握ったカルタゴギリシアに2,000タレント賠償金支払い以降70年シケリア介入しなかった。 但し、この敗北にも関わらずカルタゴシケリア西部領土失わずギリシア側も領土の拡大はできなかった。ゲロンカルタゴ同盟都市であるレギオンセリヌス攻撃しなかった。戦利品からの利益シケリアにおける公共建物建設使われ結果としてギリシア文化広がった交易によりギリシア殖民都市繁栄しアクラガスの富はシバリス(enイタリア半島有力なギリシア殖民都市)に匹敵するものとなった紀元前478年ゲロン死亡すると、続く20年間の間に各都市僭主制停止し、シュラクサイ・アクラガス同盟寡頭制民主制採用する11反目する連合体分裂した。これらの都市間の紛争一部都市拡張主義が、第二次シケリア戦争原因となった

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