第二次シケリア戦争
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共和政による効果的な政策の結果、紀元前410年までには、カルタゴは回復を遂げていた。再び現在のチュニジア一帯を支配し、北アフリカ沿岸に新たな植民都市を建設した。また、サハラ砂漠を横断したマーゴ・バルカの旅行や、アフリカ大陸沿岸を巡る航海者ハンノの旅行を後援している。版図を拡大するための遠征は、モロッコからセネガル、大西洋にまで及んでいた。しかし、同じ年、金や銀の主要産地であったイベリア半島の植民都市がカルタゴから分離し、その供給が断たれた。 ハミルカルの長男ハンニバル・マゴは、シチリア島の再領有に向けて準備を始めた。紀元前409年、ハンニバルはシチリア島への遠征を行い(第二次ヒメラの戦い)、現在のセリヌンテにあたるセリヌスやヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)といった小都市の占領に成功して帰還した。 しかし、敵対するシラクサはまだ健在であったため、紀元前405年、ハンニバルはシチリア島全域の支配を目指して、二回目の遠征を開始した。遠征は、頑強な抵抗と不運に見舞われた。アクラガス包囲戦の最中、カルタゴ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなってしまった。彼の後任として軍を指揮したヒメルコは、ギリシア軍の包囲を打ち破り、ゲラを占領した(ゲラの戦い)。さらに、シラクサの新たな僭主ディオニュシオス1世の軍もカマリナで破ったが(カマリナ略奪)、ヒメルコもまた疫病にかかり、講和を結ばざるを得なくなった。 紀元前398年、力をつけたディオニュシオスは、平和協定を破りカルタゴの要塞モティアを攻撃した(モティア包囲戦)。ヒメルコはただちに遠征軍を率いてモティアを奪回し、逆にメッセネ(メッシーナ)を占領した(メッセネの戦い)。紀元前397年には、第一次シュラクサイ包囲戦にまで至るが、翌年、再び疫病に見舞われ、ヒメルコの軍は崩壊した。 シチリア島はカルタゴにとっての生命線であり、カルタゴは固執しつづけた。以後60年以上にわたり、この島でカルタゴとギリシアの小競り合いが続くこととなる。紀元前340年、カルタゴの領土は島の南西の隅に追いやられ、依然として不穏な情勢にあった。
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第二次シケリア戦争(紀元前410年 - 紀元前340年)
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70年にわたりシケリアのギリシア殖民都市が反目と繁栄を続ける一方、カルタゴは現在のチュニジアの北半分にあたる肥沃な土地を征服し、北アフリカにレプティス、オエア(en、現在のトリポリ)と言った新しい植民都市を建設していた。またマゴ・バルカはサハラ砂漠を横断してキレナイカに到達し、航海者ハンノはアフリカの西岸を探検した。しかしイベリアの植民都市は先住民と協力してカルタゴから離反し、イベリアからの銀と銅の供給が絶たれてしまった。
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