第二次サウード王国とは? わかりやすく解説

第二次サウード王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/24 15:01 UTC 版)

第二次サウード王国
الدولة السعودية الثانية
1824年 - 1891年

(国旗)

第二次サウード王国の版図
公用語 アラビア語
首都 リヤド
君主
1824年 - 1834年 トゥルキー・ビン・アブドゥッラー英語版(初代)
人口
1890年[1]1,133,000人
変遷
成立 1824年
滅亡1891年

第二次サウード王国は、1824年から1891年まで存在したイスラム国家である。

歴史

1818年第一次サウード王国オスマン帝国ムハンマド・アリーの子イブラーヒーム・パシャ率いるエジプト軍によって滅ぼされるが、1824年ギリシャ独立戦争の隙に乗じて、サウード王族トゥルキー・ビン・アブドゥッラー英語版リヤドに移って建国した。第一次サウード王国同様にワッハーブ派イマームが国王を兼任した。

内紛が激しく、ナジュド北部のラシード家英語版ジャバル・シャンマル王国に実権を奪われるようになる。

1891年、最後の王であるアブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウード英語版がラシード家からの実権回復に失敗してリヤドを追われたため、滅亡した (en:Battle of Mulayda) 。

影響

クウェートに逃れていたアブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウードの子アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード1902年リヤド奪還に成功してナジュド及びハッサ王国を建国。その後、領土を拡大して1932年サウジアラビア王国が建国された。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ Nejd (Najd)”. Worldstatemen.org. 2022年12月24日閲覧。

第二次サウード王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 16:48 UTC 版)

サウード家」の記事における「第二次サウード王国」の解説

その後、トゥルキー・ビン・アブドゥッラー(英語版)がリヤド移って1824年に第二次サウード王国を復興したが、ナジュド中南部小勢力に留まりRoyal Civil Warとも呼ばれる1891年1月24日en:Battle of Mulaydaではナジュド北部支配者ラシード家(英語版)によって首都奪われた。アブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウード英語版)はクウェート亡命しジャバル・シャンマル王国ナジュド支配した

※この「第二次サウード王国」の解説は、「サウード家」の解説の一部です。
「第二次サウード王国」を含む「サウード家」の記事については、「サウード家」の概要を参照ください。

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