第二次グラッドストン内閣通商大臣
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「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「第二次グラッドストン内閣通商大臣」の解説
総選挙の勝利で誕生した第2次グラッドストン内閣に通商大臣として入閣した。 通商大臣として貿易を所管することになったこと、またジョン・ロバート・シーリーの『英国膨張史論 (The expansion of England)』に感銘を受けたこと、さらに自治大臣サー・チャールズ・ディルク准男爵(英語版)(『大英帝国論 (Greater Britain)』の著者)と盟友関係を深めたことなどにより、植民地政策に関心を深めていった。 1881年にエジプトで発生したウラービー革命に対しては、それがムハンマド・アリー朝に対する蜂起に留まっていた当初は「抑圧されたエジプト人民の正当な蜂起」と好意的だった。この段階から閣内でフランスと連携して武力鎮圧すべしと主張していたのはハーティントン侯爵のみであった。しかし1882年6月にアレクサンドリア在住のイギリス人が多数殺害されてイギリス世論が硬化すると、チェンバレンも立場を変更して、エジプトに投下しているイギリス資本とスエズ運河を防衛せねばならぬと全閣僚の中でも最も強硬に軍事干渉論(しかもイギリス単独の)を主張するようになった。急進派のランカスター公領大臣ジョン・ブライトが一人戦争に反対していたことと対照的だったという。最終的にグラッドストン首相はチェンバレンの意見を容れ、イギリス単独でエジプト出兵して革命を武力鎮圧して同国をイギリス占領下に置いた。 1884年にイギリスとドイツ帝国がニューギニア支配権をめぐって対立を深めた際にもチェンバレンは強硬姿勢をとり、ドイツに先んじてニューギニアを獲得すべきと訴えた。しかしグラッドストンはドイツと緊張が高まることを恐れ、ニューギニアをドイツと分割占領した。 時限立法であるアイルランド強圧法の期限が迫る1885年、アイルランド担当相ジョージ・トレヴェリアン(英語版)らホイッグ派閣僚たちが強圧法の延長を求めたが、チェンバレンはアイルランド国民党に一定の満足を与えるべきであると主張してそれに反対した。政府内にはアイルランド自治法を成立させるべきとの声もあったが、チェンバレンはそれにも反対した。彼はアイルランドについて自治国にするのではなく、地方自治体としての権限強化を考えていた。 自由党内閣のグダグダした閣内論争にしびれを切らしたアイルランド国民党(英語版)のチャールズ・スチュワート・パーネルは保守党との連携に動いた。第二次グラッドストン内閣は倒閣され、ソールズベリー侯爵を首相とする保守党内閣が樹立された。
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