第二次グラッドストン内閣外相
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「グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)」の記事における「第二次グラッドストン内閣外相」の解説
1880年に第2次グラッドストン内閣が成立すると再び外務大臣として入閣した。 1881年から英仏に半植民地化されつつあるエジプトでウラービー革命が発生し、エジプト民族主義が高揚した。1882年6月にはアレクサンドリアで反英暴動が発生し、この事件を機にグラッドストン内閣の閣内はエジプトへの軍事干渉論が主流となった。グランヴィル卿は直接の軍事侵攻ではなく、エジプトの形式的な宗主国であるトルコを通じての間接干渉を訴えていたが、首相グラッドストンは軍事干渉派の閣僚たちを抑えきれず、軍事干渉が閣議決定された。これに反発した反戦派閣僚ジョン・ブライトは辞職したが、グランヴィル卿は首相の決定に従って軍事干渉賛成に転じ、閣内に残留した。こうしてエジプトはイギリス軍の侵攻を受けることになり、以降長きにわたってイギリス軍の占領下に置かれた。 前ディズレーリ保守党政権時代にイギリス政府は、ドイツ人が多数植民しているフィジー諸島を併合してドイツ人の土地を強制収容していたが、1882年7月にその件でドイツ政府よりドイツ人の既得権を守ることを求める要望書がイギリス外務省に送られてきた。当初グランヴィル卿は植民地支配に支障をきたすとしてこの要望を拒否していた。また同時期、イギリス植民地省もリューデリッツの領有権をめぐってドイツ政府と対立を深めており、この二つの対立を背景にドイツ宰相ビスマルクは1884年から植民地政策をめぐってフランスに接近するという反英政策を展開しはじめた(イギリスを孤立に追い込むことでドイツの外交的支持の重要性を理解させようとしたと考えられる)。結局グランヴィル卿とグラッドストンはその圧力に屈してフィジーのドイツ人土地所有者問題でもリューデリッツ領有権問題でもドイツ側に譲歩することになった。 1883年にエジプト領スーダンでマフディーの反乱が発生。翌1884年3月にハルトゥームで包囲されたチャールズ・ゴードン将軍(エジプト守備軍の撤収を指揮するために派遣されたが、本国に派兵を促しているかのようにいつまでも撤退しようとせず、マフディー軍に包囲された)を救出するための援軍を派遣するか否かをめぐって閣内論争が起こったが、首相グラッドストンは帝国主義政策を嫌って救援軍派兵に反対していた。グランヴィル卿は当初グラッドストンを支持していたが、やがて派兵賛成派が閣内の多数派になると日和見になり、ついにはハーティントン侯爵やセルボーン伯爵ら派兵賛成派閣僚とともにグラッドストンの説得にあたるようになり、グラッドストンも派兵を了承するに至った。だがこの救援軍は間に合わず、1885年1月にハルトゥームは陥落し、ゴードンも戦死し、世論のグラッドストン批判が高まり、政権崩壊へと繋がった。
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