第二次グラッドストン内閣外相とは? わかりやすく解説

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第二次グラッドストン内閣外相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 15:17 UTC 版)

グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)」の記事における「第二次グラッドストン内閣外相」の解説

1880年第2次グラッドストン内閣成立すると再び外務大臣として入閣した1881年から英仏半植民地化されつつあるエジプトウラービー革命発生しエジプト民族主義高揚した1882年6月にはアレクサンドリア反英暴動発生し、この事件機にグラッドストン内閣閣内エジプトへの軍事干渉論が主流となったグランヴィル卿は直接軍事侵攻ではなくエジプト形式的な宗主国であるトルコ通じての間接干渉訴えていたが、首相グラッドストン軍事干渉派の閣僚たちを抑えきれず、軍事干渉閣議決定された。これに反発した反戦閣僚ジョン・ブライト辞職したが、グランヴィル卿は首相決定に従って軍事干渉賛成転じ閣内残留した。こうしてエジプトイギリス軍侵攻を受けることになり、以降長きわたってイギリス軍の占領下に置かれた。 前ディズレーリ保守党政権時代イギリス政府は、ドイツ人多数植民しているフィジー諸島併合してドイツ人土地強制収容していたが、1882年7月にその件でドイツ政府よりドイツ人既得権を守ることを求め要望書イギリス外務省送られてきた。当初グランヴィル卿は植民地支配支障をきたすとしてこの要望拒否していた。また同時期、イギリス植民地省もリューデリッツ領有権めぐってドイツ政府対立深めており、この二つ対立背景ドイツ宰相ビスマルク1884年から植民地政策めぐってフランス接近するという反英政策展開しはじめたイギリス孤立追い込むことでドイツ外交的支持重要性理解させようとしたと考えられる)。結局グランヴィル卿とグラッドストンはその圧力屈してフィジードイツ人土地所有者問題でもリューデリッツ領有権問題でもドイツ側譲歩することになった1883年エジプト領スーダンマフディーの反乱発生。翌1884年3月ハルトゥーム包囲されチャールズ・ゴードン将軍エジプト守備軍の撤収指揮するために派遣されたが、本国派兵促しているかのようにいつまで撤退しようとせず、マフディー軍包囲された)を救出するための援軍派遣するか否かめぐって閣内論争起こったが、首相グラッドストン帝国主義政策嫌って救援軍派兵反対していた。グランヴィル卿は当初グラッドストン支持していたが、やがて派兵賛成派閣内多数派になると日和見になり、ついにはハーティントン侯爵セルボーン伯爵派兵賛成派閣僚とともにグラッドストン説得にあたるようになり、グラッドストン派兵了承する至った。だがこの救援軍は間に合わず1885年1月ハルトゥーム陥落しゴードン戦死し世論グラッドストン批判高まり政権崩壊へ繋がった

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