第二次グラッドストン内閣において
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「スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵)」の記事における「第二次グラッドストン内閣において」の解説
第二次グラッドストン内閣でははじめインド担当大臣、1882年12月からは陸軍大臣として入閣する。 この第二次内閣においてハーティントン侯爵らホイッグ派はジョゼフ・チェンバレンら新急進派と対立を深めていった。とりわけ先の総選挙でチェンバレンが掲げた農地改革の非公式綱領は、地主貴族の多いホイッグ派には断じて受け入れられない内容だった。このような綱領を党に認めさせようとするチェンバレンのやり口はホイッグ派と急進派の妥協の上に成り立ってきたこれまでの自由党の有り様を否定しているに等しかった。深刻化する党内対立にハーティントン侯爵は「自由党の将来は急進派の物となるだろう。我々ホイッグ派は消滅するか、あるいは保守党に合流することになるだろう」とため息交じりに予言している。またホイッグ派はグラッドストンのミッドロージアン・キャンペーンも「強引な政権奪還」として快く思っていない者が多かったが、ハーティントン侯爵は「グラッドストン首相自身は急進派ではない」として入閣を決意した。 1881年にエジプトで発生したウラービー革命に対しては閣内でただ一人当初からフランスと連携して武力鎮圧すべしと主張していた。これに対して他の閣僚たちはエジプトの宗主国トルコを通じてエジプトに間接的に干渉することを主張した。しかし1882年6月にアレクサンドリアで暴動が発生し、ヨーロッパ人が多数殺害されるとイギリス支配層の意見も硬化し、閣内ではチェンバレンら新急進派がハーティントン侯らホイッグ派と声を合わせて軍事干渉論を主張するようになった。最終的にグラッドストン首相は軍事干渉論の意見を容れ、イギリス単独でエジプト出兵して革命を武力鎮圧して同国をイギリス占領下に置いた。 つづいてエジプト支配下スーダンでイギリスに支配されたエジプトに対する反発が強まり、1882年夏にマフディーの反乱が発生し、1883年9月にイギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いるエジプト軍がマフディー軍に敗北した。この情勢にグラッドストンはスーダン放棄を決定し、チャールズ・ゴードン少将を現地エジプト軍の撤退の指揮官としてハルトゥームに派遣したが、ゴードンは撤退しようとせず、1884年3月にはマフディー軍に包囲された。これに対して救援軍を送るべきか否かで閣内は分裂した。ハーティントン侯やチェンバレンは援軍派遣を求めたが、グラッドストンは「スーダンに軍隊を派遣することは自由のために戦う人民への征服戦争となる」と述べて反対した。だが7月頃になるとゴードンの深刻な状況がイギリス本国に伝わるようになり、援軍派遣の機運が高まった。ハーティントン侯の説得を受けて、グラッドストン首相も援軍派遣を決定した。ただしこの援軍は間に合わず、1885年1月にハルトゥームは陥落してゴードン将軍も戦死した。これによりグラッドストン政権は激しい批判に晒されることになった。 この間の1884年末に後発資本主義国の海軍増強を懸念した海相ノースブルック伯爵は海軍予算の増額を主張し、ハーティントン侯爵もこれに賛成したが、グラッドストンからは受け入れられず、退けられている。 時限立法であるアイルランド強圧法の期限が迫る1885年、ハーティントン侯爵やアイルランド担当相ジョージ・トレヴェリアン(英語版)らホイッグ派閣僚たちは強圧法の延長を求め、アイルランド融和派閣僚と対立を深めた。この自由党内閣のグダグダした閣内論争にしびれを切らしたアイルランド国民党(英語版)のチャールズ・スチュワート・パーネルは保守党との連携に動き、第二次グラッドストン内閣を倒閣し、ソールズベリー侯爵を首相とする保守党内閣が樹立された。
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