エジプト軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:51 UTC 版)
イスラエル軍の各機甲大隊、主にナトケ・ニル(ヘブライ語版)、ガビ・アミール(ヘブライ語版)、ツビア・ラビブ(ヘブライ語版)配下の部隊が、空挺部隊の撤退後もエジプト軍第16旅団との交戦を続行した。イスラエル軍は午前5時から、第21師団の部隊に対して航空攻撃と砲撃を集中させた。エジプト軍は、80輌以上のイスラエル軍戦車が自陣を攻撃していると見積もった。10月17日の7時頃、イスラエル軍の突破を封じ、西岸における橋頭保を破壊するエジプト軍のさらに大規模な動きの一環として、第21師団はイスラエル軍機甲戦力をアル・ガラア村落近傍から駆逐し、マツメド要塞を奪取する命令を受けた。オラビイ(英語版)は第18機械化旅団を防衛地点に配して、その戦車大隊を分離しており、また第14旅団はエジプト軍橋頭保の他の部分を防衛していたので、彼は第1旅団へ、残余の戦車53両をもって攻撃を遂行するべく任務を託した。8時に、エジプト軍は航空攻撃と砲撃を当の地区へおよそ15分間に渡って行い、続いて攻撃が開始された。エジプト軍戦車は村落近傍でイスラエル軍機甲戦力を粉砕することに成功し、9時過ぎにマツメド要塞北部の防衛拠点へ、激しい抵抗に遭いながら到達した。しかしながら、イスラエル軍の航空攻撃に支援された地上砲火によって、しばらく後に撃退された。次いでイスラエル軍戦車が反攻に出て、目覚ましい前進を達成した。機甲戦力の戦闘は一進一退の形で21時まで続き、その頃には第1旅団が当初の戦線を回復していた。一方、第18旅団配下の1個機械化歩兵大隊による17時のアル・ガラアへの攻撃は、大損害を出して失敗し、次いで当旅団には10輌の戦車が割り当てられた。イスラエル軍の機甲戦力は農場周辺の灌漑溝を占拠して、その中に身を潜めており、これで防御の位置取りを大いに向上させていた。イスラエル軍の回廊、あるいは橋頭保に向けられたエジプト軍の攻撃は失敗し、大きな損害を出した。 第1旅団は戦車20輌を失った後、33輌のみの戦車を残していた。これで第2軍最高司令部は、10月18日に21輌を保有する1個大隊を北方の第2歩兵師団から移動させ、第16師団の橋頭保において次第に減少する戦車数を増強することとした。当大隊が南方へ移動するところで、多数のイスラエル軍飛行機が隊列を攻撃し、そちらは回避行動を取って東方へと転じ、砂漠の地勢で散開して損失を防ぐことを余儀なくされた。大隊は次いで、第21師団に配属された。 アブデル・ハミドはその間、10月17日の17時30分に、配下の部隊の悲惨な状況を報告した。第16旅団は、3日連続で激しい戦闘を行っていた――弾薬は不足し始め、旅団はその砲兵部隊を殲滅されたことも含む損失により、数においても火力においても大きく劣っていた。アブデル・ハミドは第16師団の司令部から後退の命令を受けた。配下の旅団は中国農場の陣地を放棄し、第18機械化旅団の北にかけての戦線を、10月17日から18日にかけての夜半に増強した。これで遂に、ティルツールとアカビシュの各道路はイスラエル軍部隊のために開かれ、アビレイ・レブ作戦の続行が確実となった。最もミズーリは引き続いてエジプト軍の手中にあり、イスラエル軍の運河に至る回廊に対する脅威となっていた。
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