エジプト進攻(第一次エル・アラメインの戦い)
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「エルヴィン・ロンメル」の記事における「エジプト進攻(第一次エル・アラメインの戦い)」の解説
ロンメル率いる独伊軍はガザラの戦いで消耗していたが、英軍に回復の時間を与えぬために勢いに乗って1942年6月24日からエジプト領へ攻め込んだ。6月25日に独軍第15装甲師団と第21装甲師団はエジプトの港町メルサ・マトルー(en)に迫った。英軍第8軍司令官リッチーはメルサ・マトルーをなんとしても防衛するつもりだったが、中東方面軍司令官オーキンレックはこれに不同意であり、リッチーを罷免して自らが第8軍司令官を兼務した。オーキンレックはメルサ・マトルーから東に150キロのところにあるエル・アラメインの方が防御が容易と判断していた。ここはカッターラ低地の存在により作戦を展開できる領域が狭く、ロンメルが得意とする「内陸部からの大胆な迂回戦術」が使えない場所だった。 ロンメルは英軍がエル・アラメインで体制を整える前に一気に片付けることを企図し、メルサ・マトルーからエル・アラメインに撤収していく英軍の急追を命じた。6月29日には独軍第90軽師団、6月30日には独軍第15・第21装甲師団がエル・アラメインに接近した。だが結果はおもわしくなかった。英軍第3南アフリカ旅団に攻撃をかけた第90軽師団は砂嵐で進路を見失い、パニック状態になって西に敗走した。独軍第15装甲師団と第21装甲師団は英軍第18インド旅団を挟み撃ちにして攻撃したが、インド師団は持ちこたえた。独軍に随分鍛えられていた伊軍アリエテ師団も第2ニュージーランド師団の激しい抵抗にあっていた。 ロンメルは7月4日に攻勢を中止させ、休息と次の攻勢の準備を急がせた。しかしその間の7月10日から14日にかけて英軍はエル・アラメインの西方エル・エイサ丘陵に陣取る伊軍を強襲してきた。この攻勢で伊軍サブラータ歩兵師団がほぼ壊滅し、アリエテ師団も大打撃を受けた。これによりこれ以上の攻勢は難しくなった。だが国防軍最高司令部は東部戦線のドイツ軍のコーカサス進攻作戦に影響を与えるという事でロンメルにエル・アラメインの線で頑張るよう指導し続けた。その後7月を通じて英軍と独伊軍はエル・アラメインの線で一進一退の攻防を続けた。
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