列強の介入と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 13:20 UTC 版)
「ムハンマド・アリー」の記事における「列強の介入と敗北」の解説
エジプトがトルコを圧倒する事態に、ついにイギリスが介入した。7月27日にオスマン帝国に対し、フランス・プロイセン・ロシア・オーストリアとともにヨーロッパ諸国との事前協議なしにエジプトと妥協しないよう申し入れると、親エジプトのフランスを外交的に孤立させた上で翌1840年7月15日、プロイセン、ロシア、オーストリアとロンドン条約を締結。第二次エジプト・トルコ戦争での占領地の他、過去に占領したスーダンを除く領土(シリア、クレタ、アダナ、アラビア)の放棄と、7月に降伏したオスマン帝国艦隊の返還を要求した。オスマン帝国はこの動きをみて方針を転換し、8月16日にエジプト軍の撤退を要求する最後通牒を出した。ムハンマド・アリーはフランスの援護を期待しつつ拒絶する構えを見せたが、最後通牒の期限が切れた9月16日にイギリス軍はオーストリア軍、オスマン帝国軍とともにベイルートに上陸し、シリア沿岸の都市を陥落させていった。フランスの支援は声明にとどまり、フランス海軍がイギリス海軍をけん制するために出撃するというムハンマド・アリーの期待は裏切られた。シリア駐留のエジプト軍は6万の兵力を2万まで失った末にカイロへ撤退した。11月15日、チャールズ・ネイピア(英語版)率いるイギリス艦隊がアレクサンドリアに現れると、ムハンマド・アリーは降伏を余儀なくされた。第二次エジプト・トルコ戦争の敗戦について山口直彦は、総督職の世襲を実現しようとするムハンマド・アリーの焦りと、それまでの成功経験への過信が、ついに「英国という強大なイギリスの虎の尾を踏」む結果を招いたと指摘する。歴史学者の山内昌之は、「フランスを除くイギリスなど4大国から受ける敵意を、かれが過小評価したのは驚くばかりであった」と述べている。
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