列強による鉄道敷設競争
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「満洲国国有鉄道」の記事における「列強による鉄道敷設競争」の解説
中国大陸における列強の利権分割は、満洲では主に鉄道利権の奪い合いという形で現れた。日清戦争終結後、清国の負った対日賠償金への借款供与を申し出たロシア帝国は、清国に見返りを求め、これに応じた清国との間で1896年の露清密約締結に至る。この露清密約で清国は、ロシア軍の国内移動を容認するとともに、黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至るシベリア鉄道の延長敷設権(東清鉄道)を許可しており、この密約によってロシア帝国は満洲における権益拡大を清国に了承させることに成功した。1900年の満洲では、アムール川事件などの大虐殺も発生するような不穏な情勢下となっていた。 しかし、日露戦争後のポーツマス条約並びに日本国と清国間で協議された満洲善後条約(1905年)によって、南満洲鉄道(以下「満鉄」)の吉林までの延伸と日本陸軍の常駐権、また同鉄道に併行する鉄道建設の禁止等を清国が了承したことで、満洲におけるロシア帝国の権益は低下し、日本側の権益が拡大した。こうした背景から、1907年以降、満洲の鉄道利権は東清鉄道を運営するロシア帝国と南満洲鉄道を運営する日本に二分された。一方で中国資本の入った鉄道路線は満洲の西隅を走っている北京-山海関-奉天間の京奉鉄路の他、満洲中部にもいくつか存在はしていたものの、前者はイギリス系の香港上海銀行の借款によって建設されていて純粋な中国資本の路線ではなく、後者に至っては1913年10月に日本と中華民国間で結ばれた「満蒙五鉄道覚書」と1918年に路線を組み直して改締された「満蒙四鉄道覚書」を根拠として、日本が借款契約を行って敷設したもので、実質的には日本の利権路線であった。 このように列強が清国の利権を牛耳っている状況に対し、中華民国成立後の1922年頃から、列強を排して中国側に利権を取り戻そうとする政治・軍事活動「利権回収運動」が始まった。満洲ではこの運動が鉄道にも及び、日本に対しては満鉄への攻撃となって現れることになった。 これを後押ししたのが、当時満洲を実効統治していた奉天軍閥(東三省政権・東北政権)である。張作霖率いる当軍閥は、当初は日本に協力的であったものの、この頃には距離を置くようになり始めていたためである。鉄道に関しても独立姿勢を見せ、1924年には東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)の交通を管理するための「東三省交通委員会」を設立して、中国資本の鉄道を敷設し始めた。日本側もこれに対抗して1927年にさらに5つの鉄道路線の敷設権を張作霖に認めさせたが、奉天軍閥側も負けじと鉄道建設を続行する。 ここで出て来たのが、かねてから奉天軍閥の離反を何とかしたいと思っていた関東軍であった。彼らは1928年6月4日に張作霖を暗殺(張作霖爆殺事件)、奉天軍閥を恫喝したが、後を継いだ張学良は態度を硬化させて南京国民政府に合流、徹底した「反日」を掲げて行動し始めた。 その行動は鉄道政策にも現れた。張学良は軍閥を継ぐや、東三省交通委員会を「東北交通委員会」に改組するとともに、満鉄の路線を包囲して兵糧攻めとする作戦に出た。彼はまず京奉鉄路の途中から分岐する葫蘆島支線の終点・葫蘆島に新港を建造し、そこを起点に満鉄を東から西から並行して取り囲むような路線網を計画したのである。 これは満鉄にとっては手痛い打撃となった。互いに何十キロも離れての並行ではあったが、それまでそこを遠しとしても満鉄に運ばれていた貨物が、中国側に流れてしまったからである。また、1913年・1918年に交わした覚書中にある路線まで先を越されて作られ、現有していた鉄道敷設権も危機に瀕することになる。日本側は、日露戦争終結時に「満鉄の並行路線は作らない」とした「満洲善後条約」に反するとして猛抗議をしたが、並行線の定義がないこともあり、奉天軍閥は一切聞く耳を持たず、鉄道をめぐる両者の対立は深まって行った。
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