列強の思惑と開かれた独立への道とは? わかりやすく解説

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列強の思惑と開かれた独立への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)

ギリシャ独立戦争」の記事における「列強の思惑と開かれた独立への道」の解説

イギリス1822年3月25日ギリシャ宣言したオスマン帝国港湾封鎖承認した上でギリシャ戦時中であることを認めたが、これはイギリス地中海貿易保護目的としており、オスマン帝国ギリシャ船による海賊行為阻止することができなかったため、この海賊行為犯罪行為として見るか、戦闘行為と見るかという政治的判断働いた側面もあった。 一方フランスエジプト友好的な関係にあったため、その影響力を地中海伸ばすため、オルレアン公ルイ・フィリップ次男ヌムール公ルイ・シャルル・ドルレアンギリシャ王にすることを計画していた。 また、ロシアオーストリア会談持った上で1824年1月19日ギリシャモレアペロポネソス半島)、西ギリシャ、東ギリシャ3つ分割して自治国として侯国化、イギリスフランスロシアオーストリアプロイセン列強5国がそれを保障するという案を出していたが、これは明らかにロシア権益考えていた。 しかし、ロシアの案はギリシャ人らの反感買ってしまい、1824年8月24日声明発表ロシアフィリキ・エテリア創設以前からの信頼失った。その一方で12月1日イギリス外相カニングロシア提案否定ギリシャの独立支持、トルコ・ギリシャ間での調停への介入意思などを発表した。そのため、暫定政府1824年1825年の2回に渡ってイギリスへ仲介求め、さらにモンテネグロペータル1世 (en) へも支援求めた。これに対してペータル1世ギリシャ支援前向きな返事送りながらもヘルツェゴビナサンジャクアルバニアオスマン帝国軍警戒して日和見態度とっていた。 まず、イギリス暫定政府より仲介要請されていることからこれ介入決定引き続いてロシア介入決定した1825年9月30日イギリス外相カニングギリシャ側が提案していた「ギリシャイギリス保護下にする」提案退け、まず、オスマン帝国首都コンスタンティノープルへストラトフォード・カニング派遣オスマン帝国妥協が可能かどうか打診し、さらにオスマン帝国妥協しなかった場合備えてウェリントン卿を団長とする使節団ロシア派遣して協議した一方でロシアそれまでメッテルニヒとの協調路線採用していた皇帝アレクサンドル1世死去、その後ニコライ1世継いだが、ニコライ1世メッテルニヒ嫌っており、ギリシャ問題に関してカニング意見一致していた。 その結果1826年4月ペテルブルク議定書によってオスマン帝国宗主国としてギリシャ自治国創設することを前提として独立戦争介入することを確認し合い、後にフランスイギリスロシア呼応してこれに賛同した。そしてこのペテルブルク議定書翌年ロンドン条約 (en) に変更8月正式に独立戦争へ介入開始した。そしてこの条約オーストリア勧誘されたが、メッテルニヒはこれを拒否オーストリア参加しなかった。 ムハンマド・アリーの軍による猛攻によって窮地に陥っていたギリシャ暫定政府はこれを受け入れたが、この介入によりギリシャ国内では「イギリス派 (en) 」、「ロシア派 (en) 」、「フランス派 (en) 」の三派に別れギリシャ人らはそれぞれに所属することになった1827年10月20日ペロポネソス半島西南にあるナヴァリノ湾 (en) に停泊していた英仏連合艦隊オスマン帝国エジプト連合艦隊との間に偶発的な争い生じ後にこれはナヴァリノの海戦呼ばれることになる。これは当初列強三国各地中海艦隊オスマン帝国軍休戦強要するよう指示していたのだったが、親ギリシャ主義者でイギリス海軍大将サー・エドワード・コドリントン卿率い英仏連合艦隊との間にオスマン帝国エジプト連合艦隊戦い生じたものであった。この海戦において、数的に劣勢であった英仏合同艦隊が、オスマン帝国艦隊壊滅させたため、ギリシャ独立戦争転換点となった。しかし、このような海戦予期していなかった英国政府艦隊司令官コドリントン卿を解任した。この戦いイギリスウェリントンによれば望ましくない予想外出来事であり、筋書きどおりのものではなかったが、オスマン帝国立場弱体化したのは間違いなかった。 その直後ロシア軍が行動を開始することを恐れたオスマン帝国軍ルメリ部隊をモルドバ・ワラキアへ移動させたため、空白地帯となった箇所ギリシャ軍勢い盛り返し、さらにフランス軍ペロポネソス半島上陸するという情報流れたため、エジプト軍撤退開始した1827年にはフランス人将軍指揮され1万反乱軍ペロポネソス半島においてオスマン帝国軍隊打ち破ったギリシャ軍ペロポネソス半島根拠地にしてアテネテーベなどギリシャ本土占領したヨーロッパで当時ポーランド独立革命失敗)、ベルギー独立革命フランス7月革命など、各地民族独立運動繰り広げられていたウィーン体制動揺期であり、その評価欧州でも割れた欧州諸国民の世論概ね独立支持であり、しかし一方で体制反動であった結局ヨーロッパ列強ギリシャの独立支持することに至りウィーン体制亀裂走ったのである。しかもこれは、バルカン半島イスラム教徒支配覆す土台となったのである1827年5月ギリシャトレゼネ第3回国民議会 (en) を開き第三憲法 (en) を公布初代大統領イオアニス・カポディストリアス選出された。しかし、カポディストリアス自由主義的な条項議会派閥力学軽蔑しており、カポディストリアス憲法停止させた上で議会停止、小評議会パンエリニオンに置き換え直接支配した。そしてカポディストリアス陸軍創設行政システム教育システム整備交通手段改善経済の建て直しなど精力的な活動取り組んだ。特に土地問題には自作農らを育成することにより新国家骨子になるよう希望していたが、これはペロポネソス半島名士や軍の指導者らの猛烈な反発を受けることになった。 そして、列強国判断ではギリシャペロポネソス半島限られる可能性があったが、カポディストリアスこれだけ範囲ではギリシャが国として成立しない考えていた。しかし、評議会パンエリニオンにはオスマン帝国交渉する権限がなかったため、カポディストリアス領土策定について奔走することになった。そのためにコリントス湾北の大陸ギリシャ地域派兵し既成事実形成などの努力行ったが、露土戦争発生したために国境決定1932年に持込される。

※この「列強の思惑と開かれた独立への道」の解説は、「ギリシャ独立戦争」の解説の一部です。
「列強の思惑と開かれた独立への道」を含む「ギリシャ独立戦争」の記事については、「ギリシャ独立戦争」の概要を参照ください。

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