列強の思惑と開かれた独立への道
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「ギリシャ独立戦争」の記事における「列強の思惑と開かれた独立への道」の解説
イギリスは1822年3月25日にギリシャが宣言したオスマン帝国の港湾の封鎖を承認した上で、ギリシャを戦時中であることを認めたが、これはイギリスの地中海貿易の保護を目的としており、オスマン帝国がギリシャ船による海賊行為を阻止することができなかったため、この海賊行為を犯罪行為として見るか、戦闘行為と見るかという政治的判断が働いた側面もあった。 一方、フランスはエジプトと友好的な関係にあったため、その影響力を地中海に伸ばすため、オルレアン公ルイ・フィリップの次男でヌムール公のルイ・シャルル・ドルレアンをギリシャ王にすることを計画していた。 また、ロシアはオーストリアと会談を持った上で1824年1月19日にギリシャをモレア(ペロポネソス半島)、西ギリシャ、東ギリシャの3つに分割して自治国として侯国化、イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロイセンの列強5国がそれを保障するという案を出していたが、これは明らかにロシアの権益を考えていた。 しかし、ロシアの案はギリシャ人らの反感を買ってしまい、1824年8月24日に声明を発表、ロシアはフィリキ・エテリア創設以前からの信頼を失った。その一方で12月1日、イギリス外相カニングはロシアの提案を否定、ギリシャの独立の支持、トルコ・ギリシャ間での調停への介入の意思などを発表した。そのため、暫定政府は1824年、1825年の2回に渡ってイギリスへ仲介を求め、さらにモンテネグロのペータル1世 (en) へも支援を求めた。これに対してペータル1世はギリシャ支援に前向きな返事を送りながらもヘルツェゴビナやサンジャク、アルバニアのオスマン帝国軍を警戒して日和見的態度をとっていた。 まず、イギリスが暫定政府より仲介を要請されていることからこれに介入を決定、引き続いてロシアも介入を決定した。1825年9月30日、イギリス外相カニングはギリシャ側が提案していた「ギリシャをイギリス保護下にする」提案は退け、まず、オスマン帝国首都コンスタンティノープルへストラトフォード・カニングを派遣、オスマン帝国に妥協が可能かどうか打診し、さらにオスマン帝国が妥協しなかった場合に備えて、ウェリントン卿を団長とする使節団をロシアに派遣して協議した。一方でロシアはそれまでメッテルニヒとの協調路線を採用していた皇帝アレクサンドル1世が死去、その後をニコライ1世が継いだが、ニコライ1世はメッテルニヒを嫌っており、ギリシャ問題に関してはカニングと意見が一致していた。 その結果、1826年4月、ペテルブルク議定書によってオスマン帝国を宗主国としてギリシャ自治国を創設することを前提として独立戦争に介入することを確認し合い、後にフランスもイギリス、ロシアに呼応してこれに賛同した。そしてこのペテルブルク議定書は翌年、ロンドン条約 (en) に変更、8月、正式に独立戦争への介入を開始した。そしてこの条約にオーストリアも勧誘されたが、メッテルニヒはこれを拒否、オーストリアは参加しなかった。 ムハンマド・アリーの軍による猛攻によって窮地に陥っていたギリシャ暫定政府はこれを受け入れたが、この介入によりギリシャ国内では「イギリス派 (en) 」、「ロシア派 (en) 」、「フランス派 (en) 」の三派に別れ、ギリシャ人らはそれぞれに所属することになった。 1827年10月20日、ペロポネソス半島西南にあるナヴァリノ湾 (en) に停泊していた英仏露連合艦隊とオスマン帝国・エジプト連合艦隊との間に偶発的な争いが生じ後にこれはナヴァリノの海戦と呼ばれることになる。これは当初、列強三国の各地中海艦隊がオスマン帝国軍に休戦を強要するよう指示していたのだったが、親ギリシャ主義者でイギリス海軍大将サー・エドワード・コドリントン卿率いる英仏露連合艦隊との間にオスマン帝国・エジプト連合艦隊と戦いが生じたものであった。この海戦において、数的には劣勢であった英仏露合同艦隊が、オスマン帝国艦隊を壊滅させたため、ギリシャ独立戦争の転換点となった。しかし、このような海戦を予期していなかった英国政府は艦隊司令官コドリントン卿を解任した。この戦いはイギリスのウェリントン卿によれば望ましくない予想外の出来事であり、筋書きどおりのものではなかったが、オスマン帝国の立場が弱体化したのは間違いなかった。 その直後、ロシア軍が行動を開始することを恐れたオスマン帝国軍はルメリの部隊をモルドバ・ワラキアへ移動させたため、空白地帯となった箇所でギリシャ軍が勢いを盛り返し、さらにフランス軍がペロポネソス半島へ上陸するという情報が流れたため、エジプト軍は撤退を開始した。 1827年にはフランス人の将軍に指揮された1万の反乱軍がペロポネソス半島においてオスマン帝国の軍隊を打ち破った。ギリシャ軍はペロポネソス半島を根拠地にしてアテネ、テーベなどギリシャ本土を占領した。 ヨーロッパでは当時ポーランド独立革命(失敗)、ベルギー独立革命、フランス7月革命など、各地で民族独立運動が繰り広げられていたウィーン体制の動揺期であり、その評価は欧州でも割れた。欧州諸国民の世論は概ね独立の支持であり、しかし一方で体制は反動期であった。 結局、ヨーロッパ列強はギリシャの独立を支持することに至り、ウィーン体制に亀裂が走ったのである。しかもこれは、バルカン半島のイスラム教徒の支配を覆する土台となったのである。 1827年5月、ギリシャはトレゼネで第3回国民議会 (en) を開き、第三憲法 (en) を公布、初代大統領にイオアニス・カポディストリアスが選出された。しかし、カポディストリアスは自由主義的な条項や議会の派閥力学を軽蔑しており、カポディストリアスは憲法を停止させた上で議会も停止、小評議会パンエリニオンに置き換え直接支配した。そしてカポディストリアスは陸軍の創設、行政システム、教育システムの整備、交通手段の改善、経済の建て直しなど精力的な活動に取り組んだ。特に土地の問題には自作農らを育成することにより新国家の骨子になるよう希望していたが、これはペロポネソス半島の名士や軍の指導者らの猛烈な反発を受けることになった。 そして、列強国の判断ではギリシャはペロポネソス半島に限られる可能性があったが、カポディストリアスはこれだけの範囲ではギリシャが国として成立しないと考えていた。しかし、評議会パンエリニオンにはオスマン帝国と交渉する権限がなかったため、カポディストリアスは領土策定について奔走することになった。そのためにコリントス湾北の大陸ギリシャ地域に派兵して既成事実の形成などの努力を行ったが、露土戦争が発生したために国境の決定は1932年に持込される。
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