動揺期とは? わかりやすく解説

動揺期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 01:28 UTC 版)

戸沢氏」の記事における「動揺期」の解説

秀盛の後を道盛が継いだが、僅か5歳だったこともあり、叔父忠盛角館入城し後見人努める。しかし忠盛宗家奪取企て、道盛とその母(楢岡氏出身)は城外追放される。しかし、この一方的な謀反家臣団支持得られず、楢岡氏中心に六郷本堂白岩氏らが結束して忠盛圧力をかけ、最後は道盛の角館復帰忠盛淀川城退去決着する天文10年1541年)、小野寺氏北浦攻略開始する天文9年1540年)に本宗地滴石の失陥、更に天文14年1545年)には淀川城安東氏によって奪われており、戸沢氏最大危機であった。そのため、家臣団降伏やむなし雰囲気だった。しかし道盛母の奮起と、それに応えた家臣団必死抵抗により、小野寺氏攻略あきらめる。戸沢氏危機消え去った天文16年1547年)、淀川城を再奪取。その勢いで荒川城も攻略するその後大曲土屋富樫氏臣従させることに成功元亀元年1570年)には、富樫勝家により高畑築城させ、小野寺氏への逆襲開始した。 こうして北浦全域仙北中郡、旧仙北郡大部分平定するその後、道盛は本堂氏の女と結婚し3男儲ける。

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動揺期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:32 UTC 版)

平氏政権」の記事における「動揺期」の解説

長らく続いた後白河清盛良好な関係は、安元2年1176年)の建春門院死によって大きな変化生じ始めた後白河寵愛する建春門院は、後白河清盛の関係をつなぐ重要な存在であったが、その死は、両者間に蓄積していた対立点を顕在化させることとなった高倉天皇成人して政治への関与深めていたが、後白河院政継続望んでいたため、高倉擁する平氏後白河擁する院近臣の間には人事巡って鋭い対立生じていた。院近臣藤原定能藤原光能蔵人頭になったことに対抗して平氏側から重盛宗盛それぞれ左大将右大将になるなど、しばらくは膠着状態続いた後白河福原訪れて平氏との関係修復模索するが、ここに突然、新たな要素として延暦寺登場する加賀守藤原師高目代であり弟である藤原師経白山末寺焼いたことが発端で、当初目代現地寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山本寺延暦寺であり、師高・師経の父が院近臣西光だったため、中央波及して延暦寺と院勢力との全面衝突発展した。この強訴では、重盛の兵が神輿射るという失態犯したことで延暦寺側に有利に事が運び、師高の配流・師経の禁獄で一旦は決着する安元3年1177年4月には、大内裏大極殿官庁全て全焼する大火発生した太郎焼亡)。この大火後白河に非常に大きな衝撃与えたこのような中で延暦寺への恨みを抱く西光後白河に、天台座主明雲強訴張本人あり処罰することを訴えた明雲突如座主解任され所領まで没収された上、伊豆配流となった激怒した延暦寺大衆明雲身柄奪回したため、ここに延暦寺と院勢力との抗争再燃することになった後白河清盛延暦寺への攻撃命じるが、清盛自身攻撃消極的であり、むしろ事態悪化させた後白河西光憤り抱いていた。延暦寺攻撃直前6月1日多田行綱が、京都郊外鹿ヶ谷で成親、西光俊寛院近臣集まり平氏打倒謀議をしていたと密告した清盛関係者速やかに斬罪流罪などに処断した(鹿ケ谷の陰謀)。陰謀事実であったかは定かでないが、これにより清盛延暦寺との望まぬ軍事衝突回避することができ、後白河多く近臣失い政治発言権著しく低下させてしまった。また、成親と婚姻関係を結び、一貫して盟友関係にあった重盛平氏政権後継者としての地位は、彼が清盛現在の正室であった時子所生ではないこともあって、動揺することになる(重盛清盛最初正妻であった高階基章の娘の所生)。 清盛は、後白河との関係を放棄する一方で高倉天皇との関係を強化し高倉もまた後白河院政からの独立志向し、翌治承2年1178年)、両者連携して新制17条を発布した同年には中宮徳子高倉皇子言仁親王(後の安徳天皇)を出産、同親王生後1月皇太子立てられた。 治承3年1179年重盛と盛子が相次いで死去すると、後白河関白基房と共謀し清盛無断重盛知行国越前)と盛子の荘園没収した。特に盛子の所領高倉相伝することが決まっていたため、高倉清盛側と後白河側の対立悪化一途たどった11月14日清盛福原から上京すると、基房・師家父子手始めに、藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人受領検非違使など31名)を解官後白河鳥羽殿幽閉した。これは事実上軍事力による朝廷制圧であり後白河院政は完全に停止された。以後平氏政権はますます軍事的な色彩強めていく。この治承三年の政変をもって武家政権としての平氏政権初め成立したとする見解もある。従前高官に代わって平氏一族や親平氏貴族登用され、また知行国大幅な入れ替えもあって中央地方両面において平氏一門中心とする軍事的な支配体制強化していった。 同年平氏一門知行国25か国、国守29か国にのぼり、平氏勢力基盤西国のみならず東国にも平氏政権勢力が及ぶこととなった平氏荘園500箇所だったとされているが、平氏本家などといった最上位領主として荘園支配したではなく領家預所といった職で荘園管理当たっていた。平氏政権は、各地武士系列化したり、家人武士各地派遣し知行国においては国守護人荘園においては地頭呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配形態は、関係史料少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律適用されたのではなく武士による支配模索する中で現れに過ぎないとされている。これは後の鎌倉幕府による本格的な武家政権支配比較すると、御家人制度のように確立されたものでもなく未熟なのだったといえるが、武士通じた支配ネットワーク構築したことは従前貴族政には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界で発現期の武家政権であるとする評価主流となっている。なお、清盛置いた国守護人地頭は、鎌倉期におけるの守護・地頭の祖形だと考えられている。 治承4年1180年2月高倉天皇言仁親王譲位安徳天皇)、平氏傀儡としての高倉院政が開始された。清盛先のクーデター起こし得た要因1つとして、言仁親王誕生によって清盛自らが治天の君高倉天皇高倉上皇)と今上言仁親王安徳天皇)を擁立することが可能になったことが挙げられ、この譲位によって平家単なる軍事的警察的な側面朝廷奉仕する権門から、皇位継承直接関与できる権集団へと上昇することができ、名実と共に武家政権として確立されたとする見解もある。 平氏軍事貴族超えて政治実権掌握したが、後白河幽閉多く反対勢力生み出し高倉院政もクーデター成立した政権であるため平氏軍事力支えられている面が大きく、その正統性疑問があった。さらに新しく平氏知行国となった国では、国司国内武士の対立発生するなど、平氏政権極めて脆弱な基盤載っていたといえる

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