動揺期
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秀盛の後を道盛が継いだが、僅か5歳だったこともあり、叔父の忠盛が角館に入城し、後見人を努める。しかし忠盛が宗家奪取を企て、道盛とその母(楢岡氏出身)は城外に追放される。しかし、この一方的な謀反は家臣団の支持を得られず、楢岡氏を中心に六郷・本堂・白岩氏らが結束して忠盛に圧力をかけ、最後は道盛の角館復帰、忠盛の淀川城退去で決着する。 天文10年(1541年)、小野寺氏が北浦郡攻略を開始する。 天文9年(1540年)に本宗地滴石の失陥、更に天文14年(1545年)には淀川城を安東氏によって奪われており、戸沢氏最大の危機であった。そのため、家臣団は降伏やむなしの雰囲気だった。しかし道盛母の奮起と、それに応えた家臣団の必死の抵抗により、小野寺氏は攻略をあきらめる。戸沢氏の危機は消え去った。 天文16年(1547年)、淀川城を再奪取。その勢いで荒川城も攻略する。その後、大曲土屋の富樫氏を臣従させることに成功。元亀元年(1570年)には、富樫勝家により高畑に築城させ、小野寺氏への逆襲を開始した。 こうして北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定する。その後、道盛は本堂氏の女と結婚し3男儲ける。
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動揺期
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長らく続いた後白河と清盛の良好な関係は、安元2年(1176年)の建春門院の死によって大きな変化が生じ始めた。後白河の寵愛する建春門院は、後白河と清盛の関係をつなぐ重要な存在であったが、その死は、両者間に蓄積していた対立点を顕在化させることとなった。 高倉天皇は成人して政治への関与を深めていたが、後白河も院政継続を望んでいたため、高倉を擁する平氏と後白河を擁する院近臣の間には人事を巡って鋭い対立が生じていた。院近臣の藤原定能・藤原光能が蔵人頭になったことに対抗して、平氏側からは重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将になるなど、しばらくは膠着状態が続いた。後白河は福原を訪れて平氏との関係修復を模索するが、ここに突然、新たな要素として延暦寺が登場する。加賀守・藤原師高の目代であり弟である藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師高・師経の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。この強訴では、重盛の兵が神輿を射るという失態を犯したことで延暦寺側に有利に事が運び、師高の配流・師経の禁獄で一旦は決着する。 安元3年(1177年)4月には、大内裏・大極殿・官庁の全てが全焼する大火が発生した(太郎焼亡)。この大火は後白河に非常に大きな衝撃を与えた。このような中で延暦寺への恨みを抱く西光は後白河に、天台座主・明雲が強訴の張本人であり処罰することを訴えた。明雲は突如、座主を解任されて所領まで没収された上、伊豆に配流となった。激怒した延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪回したため、ここに延暦寺と院勢力との抗争が再燃することになった。後白河は清盛に延暦寺への攻撃を命じるが、清盛自身は攻撃に消極的であり、むしろ事態を悪化させた後白河や西光に憤りを抱いていた。延暦寺攻撃直前の6月1日、多田行綱が、京都郊外の鹿ヶ谷で成親、西光、俊寛ら院近臣が集まり平氏打倒の謀議をしていたと密告した。清盛は関係者を速やかに斬罪や流罪などに処断した(鹿ケ谷の陰謀)。陰謀が事実であったかは定かでないが、これにより清盛は延暦寺との望まぬ軍事衝突を回避することができ、後白河は多くの近臣を失い、政治発言権を著しく低下させてしまった。また、成親と婚姻関係を結び、一貫して盟友関係にあった重盛の平氏政権後継者としての地位は、彼が清盛の現在の正室であった時子の所生ではないこともあって、動揺することになる(重盛は清盛最初の正妻であった高階基章の娘の所生)。 清盛は、後白河との関係を放棄する一方で高倉天皇との関係を強化し、高倉もまた後白河院政からの独立を志向し、翌治承2年(1178年)、両者は連携して新制17条を発布した。同年には中宮・徳子が高倉の皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を出産、同親王は生後1月で皇太子に立てられた。 治承3年(1179年)重盛と盛子が相次いで死去すると、後白河は関白基房と共謀し、清盛に無断で重盛の知行国(越前)と盛子の荘園を没収した。特に盛子の所領は高倉が相伝することが決まっていたため、高倉・清盛側と後白河側の対立は悪化の一途をたどった。11月14日清盛は福原から上京すると、基房・師家父子を手始めに、藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を解官、後白河も鳥羽殿へ幽閉した。これは事実上、軍事力による朝廷の制圧であり後白河院政は完全に停止された。以後、平氏政権はますます軍事的な色彩を強めていく。この治承三年の政変をもって、武家政権としての平氏政権が初めて成立したとする見解もある。従前の高官に代わって平氏一族や親平氏的貴族が登用され、また知行国の大幅な入れ替えもあって中央・地方の両面において平氏一門を中心とする軍事的な支配体制が強化していった。 同年の平氏一門の知行国25か国、国守29か国にのぼり、平氏の勢力基盤の西国のみならず、東国にも平氏政権の勢力が及ぶこととなった。平氏の荘園は500余箇所だったとされているが、平氏は本家などといった最上位の領主として荘園を支配したのではなく、領家や預所といった職で荘園管理に当たっていた。平氏政権は、各地の武士を系列化したり、家人の武士を各地へ派遣し、知行国においては国守護人、荘園においては地頭と呼ばれる職に任命して現地支配に当たらせた。ただし、こうした現地支配の形態は、関係史料が少ないため明らかでない部分もあるが、平氏支配地に一律で適用されたのではなく、武士による支配を模索する中で現れたに過ぎないとされている。これは後の鎌倉幕府による本格的な武家政権支配と比較すると、御家人制度のように確立されたものでもなく未熟なものだったといえるが、武士を通じた支配ネットワークを構築したことは従前の貴族政権には見られない画期的なものとされ、ゆえに学界では発現期の武家政権であるとする評価が主流となっている。なお、清盛が置いた国守護人・地頭は、鎌倉期におけるの守護・地頭の祖形だと考えられている。 治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王に譲位(安徳天皇)、平氏の傀儡としての高倉院政が開始された。清盛が先のクーデターを起こし得た要因の1つとして、言仁親王の誕生によって清盛自らが治天の君(高倉天皇→高倉上皇)と今上(言仁親王→安徳天皇)を擁立することが可能になったことが挙げられ、この譲位によって平家は単なる軍事的・警察的な側面で朝廷に奉仕する権門から、皇位継承に直接関与できる権力集団へと上昇することができ、名実と共に武家政権として確立されたとする見解もある。 平氏は軍事貴族の枠を超えて政治の実権を掌握したが、後白河の幽閉は多くの反対勢力を生み出し、高倉院政もクーデターで成立した政権であるため平氏の軍事力に支えられている面が大きく、その正統性に疑問があった。さらに新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が発生するなど、平氏政権は極めて脆弱な基盤に載っていたといえる。
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