太郎焼亡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 太郎焼亡の意味・解説 

安元の大火

(太郎焼亡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 13:45 UTC 版)

安元の大火(あんげんのたいか)は、安元3年4月28日ユリウス暦1177年5月27日)に平安京内で起こった大火災太郎焼亡(たろうしょうぼう)とも呼ばれる。

経過

安元3年(1177年)4月28日亥の刻(午後10時頃)、樋口富小路付近で発生した火は南東からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、西は朱雀大路(幅約84メートル)を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失し、北は大内裏にまで達した。皇居里内裏)だった閑院(二条南、西洞院西)にも火が迫ったため、高倉天皇中宮平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。火は翌日辰の刻(午前8時頃)になっても鎮火しなかったという(『玉葉』29日条)。焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼に帰した。大内裏の大極殿の焼亡は貞観18年(876年)、天喜6年(1058年)に次いで三度目であったが、内裏で天皇が政務を執り行う朝堂院としての機能はもはや形骸化しており以後は再建されることはなかった。

被害

大内裏

その他の施設

公卿の邸宅

「この外殿上人已下、幾多を知らず」(『玉葉』)
「家二万余家云々、町数二百余町を焼く云々」(『愚昧記』)
「およそ百八十余町。この中人家、幾万家を知らず」(『百錬抄』)
「その外、数へ知るに及ばず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ」(『方丈記』)

参考文献

  • 片平博文「12〜13世紀における京都の大火災」『歴史都市防災論文集』1、2007年。

脚注

関連項目

  • 治承の大火 - 翌治承2年(1178年)に発生した大火。「次郎焼亡」と呼ばれる。
  • 方丈記 - 大火についての描写がある。
  • 草燃える - NHK大河ドラマ。物語の冒頭で描かれている。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「太郎焼亡」の関連用語

太郎焼亡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



太郎焼亡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの安元の大火 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS