安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:24 UTC 版)
詳細は「鹿ケ谷の陰謀」を参照 しかし、4月になると延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。発端は延暦寺の末寺・白山と現地の目代の紛争で、中央に波及して院と延暦寺の全面衝突となった。この時、官兵を率いた重盛は閑院内裏を警護して大衆と対峙していたが、家人の放った矢が神輿に当たるという不祥事を引き起こした。高倉天皇は法住寺殿に避難し、後白河院は大衆を実力で排除しようとするが、京都が戦場になる可能性があると反対の声が上がり、実際に出動する平氏一門も、延暦寺との衝突には極めて消極的な態度をとったために断念、大衆の要求を受諾して師高の配流・神輿を射た重盛の家人の投獄を行った。 その後、「太郎焼亡」と呼ばれる大火が発生し、太極殿と関白以下13人の公卿の邸宅が焼失する。その中には重盛の邸宅も含まれていた。5月、後白河院は延暦寺に報復を決意すると、天台座主・明雲を解任、所領を没収して伊豆国への配流を命じた。しかし明雲の身柄は大衆に奪還されたため、後白河院は重盛・宗盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じた。重盛らは「父・清盛の指示がなければ動かせません」と返答したため、話にならないと見た後白河院は、清盛を福原から呼び出した。清盛も出兵には消極的だったが後白河院は強硬姿勢を崩さず、やむを得ず出兵を承諾した。 6月1日、多田行綱が平氏打倒の陰謀を密告したことで状況は激変した。この事件では重盛の義兄・藤原成親も関与していて、重盛は捕らえられた成親に「命だけは助かるようにする」と励ましたという(『愚管抄』)。清盛の怒りは凄まじく、成親は備前国へ配流され関係者も一網打尽に検挙された。重盛は左大将を辞任して抗議の姿勢を見せ、配流された成親に密かに衣類を送るなど必死の努力をするが、7月に成親は殺害された。 重盛は長男維盛と三男で経子の長男の清経の妻に藤原成親の娘をそれぞれ迎えるなど、親密な関係を持っていた。上皇の妃であった平滋子の死去から平家と疎遠になりがちな後白河院に対する交渉窓口として、重盛は成親を重視し、後白河院に平氏の要望を取り次ぐ役割を期待してのことであった。その成親が平氏打倒の首謀者であったことで、重盛の面目は丸潰れとなり、公私にわたる政治的地位を失墜させることになった。
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