ギリシャの独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:20 UTC 版)
1821年にギリシャがオスマン帝国からの独立を宣言してギリシャ独立戦争が勃発すると、「東方問題」は再びヨーロッパの主要な問題となった。そもそも「東方問題」という用語はこの時に作られたものである。1815年以来たびたびロシアがオスマン帝国領内に侵入しようとしていると噂されていたため、ギリシャの独立問題はロシアが画策した陰謀である、あるいはこの機に乗じてロシアがオスマン帝国への侵略を開始するという危惧が各国間に広がった。 ギリシャ独立戦争の開戦当時、ヨーロッパは ウィーン体制によって安定した協調状態にあった。そこで、オーストリアの外務大臣メッテルニヒとイギリスの外務大臣カッスルレー卿ロバート・スチュアートは、ロシア皇帝アレクサンドル1世に対して、皇帝自身が主導するウィーン体制の勢力均衡を崩さないため、ギリシャ独立戦争には参戦しないよう訴えた。アレクサンドル1世はこのような状況で去就を決めかね、結局ロシアはギリシャをめぐる「東方問題」に積極的には介入しなかった。 しかし、1825年にアレクサンドルが崩御しニコライ1世が登極すると、ヨーロッパ諸国への配慮をやめて、ギリシャ独立戦争に介入することを決定した。ロシアが介入する態度を見せると、ギリシャがロシアの従属国とならないように、イギリスもすぐにこの問題に介入した。さらに、西ヨーロッパ文明の源であるギリシャの独立に対し、当時西ヨーロッパを風靡していたロマン主義が有利に働き、フランスもギリシャを支援して介入した。オーストリアだけは、ロシアに対する警戒からギリシャへの支援を控えていた。 このような列強の介入に憤慨したオスマン皇帝マフムト2世は、1828年、ロシアに宣戦布告した。オーストリアは事態の進展に驚き、列強国間で反ロシアの同盟を形成しようとしたが、各国の思惑が違い成功しなかった。1829年までにロシア軍はオスマン帝国との戦争を優勢に進めたものの、戦況は長期化の様相を呈した。ロシアはオスマン帝国の解体を意図してオーストリアの参戦を求めたが、ロシアの南下政策を恐れるイギリスの懸念を招き、実現しなかった。このときになってフランスのシャルル10世が列強によるオスマン帝国分割を提案したが、すでに時機を逸していたので、この提案が何らかの成果につながることはなかった。 ロシアは、オスマン帝国の解体は実現できなかったが、1829年にオスマン帝国との間でアドリアノープル条約を締結し、オスマン帝国をますます従属的な立場へ追いやった。この条約によって、ロシアは黒海に沿ったオスマン帝国領土を譲り受け、ダーダネルス海峡での商船の航行権を得たうえ、オスマン帝国内におけるロシア商人の商業特権が強化された。その後1832年のコンスタンティノープル条約でギリシャの独立は確認され、ギリシャ独立戦争は終結した。
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