ギリシャの植民都市時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 00:03 UTC 版)
「メッシーナ」の記事における「ギリシャの植民都市時代」の解説
紀元前8世紀、ギリシャ人植民者(エウボイア島のカルキス出身者とされる)によってこの都市は建設された。都市のもともとの名称はザンクレ(Zancle)で、自然港湾の形が大鎌(古代ギリシア語: ζάγκλον)に似ているところから付けられた名である(伝説では、初代の王であったザンクロス (Zanclus) に由来すると語られる)。なお、メッシーナ市の南に隣接するメッシーナ海峡の入り口の町スカレッタ・ザンクレーアに名残をとどめている。 紀元前5世紀初頭、海峡対岸のレギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)の僭主アナクシラスはこの都市を支配し、名称をメッセネ(Messene)に改めた。これは、ギリシャ本土の都市メッセネ(古代ギリシア語: Μεσσήνη、現在のメッシニア県メシニ(英語版))にちなんだものである。 市は紀元前397年、シケリア戦争中のメッセネの戦いでカルタゴによって略奪を受けたが、のちにシュラクサイ(現在のシラクサ)僭主ディオニュシオス1世によって奪回された。 詳細は「メッセネの戦い (第一次ポエニ戦争)」を参照 紀元前288年、シュラクサイに雇われていた傭兵集団のマメルティニは、裏切りによってこの都市を占領、男性市民全員を殺害し、女性市民を自分たちの妻とした。マメルティニはこの都市を拠点として周辺の田園地帯を荒らしたため、拡大政策をとるシュラクサイとの対立を引き起こした。シュラクサイの僭主ヒエロン2世は、ミュラエ(現在のミラッツォ)近郊のロンガヌス川 (Longanus) でマメルティニを破り、メッセネを包囲した。シケリア(シチリア)の支配権をめぐりシュラクサイと長く対立してきたカルタゴは、マメルティニを支援した。 紀元前264年、ヒエロン2世が2度目の攻撃を仕掛けると、マメルティニはより信頼できる保護を求めて共和政ローマへ同盟を嘆願した。ローマは、他の傭兵集団の反乱を後押しするような同盟を結ぶことに当初は消極的であったが、カルタゴの勢力がシケリアで広がりさらにイタリア本土へ迫るのも望まなかった。このため、マメルティニとの同盟を結んだローマは、紀元前264年に兵士をシチリアに派遣した。これはローマ軍がイタリア半島外に行った最初の遠征であった。こうして、シケリアに介入したローマとカルタゴは第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前241年)を戦う。
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