ギリシャの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
元来、ギリシャ商人らはビザンツ帝国以来、商業面で活躍しており、一時期、ヴェネツィア、フランス、イギリスの海外進出によって活動範囲が狭められたものの、18世紀以降、英仏戦争などの影響でフランス、イギリスの商業活動が低迷すると再び、ギリシャ商人らの活動は活発化、さらにセルビア商人、ブルガリア商人、ユダヤ商人などが加わった。 その後、各地で手工業が小規模ながら発達したが、商業や商品生産が発達したことで、商工業に関わった中産階級の人々の中で民族意識が高まっていった。そのため、子弟を西欧へ遊学させて知識を吸収させたため、中産階級の人々等はオスマン帝国の支配下である現状を打破することを考えるようになっていった。 中でもギリシャ商人らはトリエステ、ヴェネツィア、ウィーン、アムステルダム、ブダペスト、オデッサなどで商業活動を行っており、これら西欧の地域での活動は新たな知識の取得に役立ち、さらに書物や資金を地元へ送ったことで地元の人々の知的覚醒をも促進した。なお、ギリシャ独立戦争の嚆矢となったフィリキ・エテリアはオデッサ在住のギリシャ商人によって設立されている。 さらに18世紀後半以降、ヨーロッパでは古代ギリシャ文化が再評価され、「親ギリシャ主義(フィルヘレニズム) (en) 」が台頭、ギリシャへの旅行が行われるようになっていた。このギリシャへの情熱はギリシャに住む人々を古代ギリシャの末裔であるとして彼らが「異民族」に支配されている状況を異常な状態であると考えさせるようになっていった。そして彼らギリシャ人を異民族の手から救い出し、古代の栄光を取り戻させることが責務であるとも考えていた。 このギリシャ再生を望む潮流はヨーロッパ各国に在住していたギリシャ知識人、商人らだけではなく、オスマン帝国下のギリシャ人らにも影響を与え、一方で西欧で生まれた啓蒙思想もギリシャ語へ翻訳されてギリシャへ持ち込まれるようにもなった。この状況は西欧のギリシャ人居住区、ヴェネツィア支配下のイオニア諸島、イスタンブール、スミルナ、モルドバ・ワラキア両公国にまで及び、各地のギリシャ学校において古代ギリシャ語、古代ギリシャ史、ギリシャ古典文学に重点が置かれた教育が行われた。 さらにパリに滞在していたギリシャ人で古典学者のアダマンティス・コライス (en) はフランス革命、ナポレオン戦争の経験からギリシャ人が自らを「ギリシャ人」と自覚する必要があると考えていた。コライスによれば、ビザンツ的なキリスト教の要素がギリシャ人が隷属する状況を作り出した根源であり、ギリシャ人の文化的根源は古代ギリシャにあるとしていた。そのためコライスは「ギリシャ文庫」と呼ばれるギリシャ古典の出版を行い、それまで「ローマ帝国の人」でオスマン帝国下では「キリスト教徒」という意味で用いられていた「ロミイ(ロメオス)」と自称するのではなく、「エリネス(ヘレネス)」もしくは「グレキ」と自称するべきだと主張してギリシャ民族としての意識高揚を図った。 この高揚はギリシャ人らに政治的な意識の芽生えを生じさせ、1799年に行われたフランスによるイオニア諸島の併合などが行われたことで、フランス革命の思想や啓蒙思想がギリシャへ流れ込んだことから東方正教会指導者層らが危機感を募らせる結果に至った。そのため、1798年、正教会指導者層はオスマン帝国の支配を神の意志にしたがって受け入れるべきとする文書『父の教え』を出版したが、コライスはこれに対して『兄の教え』という文書で対抗した。
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