商業特権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:20 UTC 版)
江戸時代の大町は、仙台藩から格別の商業特権を与えられた。江戸時代の初期には、9月の間だけ御譜代町の1つが主要27品目の販売を独占する九月御日市の特権があった。大町も御譜代町であるから、6年ごとに城下の商人はみな大町で店を借りて商売をしなければならなかった。この特権は1651年(慶安4年)10月に廃止され、かわりに、御譜代町は毎年総額70貫480文を6年一巡で商人判(営業許可証)を持つ商人から徴収することになった。 これと別に、城下町建設の際に御用捨という品目を決めた通年の商業独占権(一町株)も与えられた。大町一丁目は古手(古着)、大町二三四丁目は絹物・木綿・小間物、大町五丁目は油である。一から四丁目の特権は、大町検断の青山出雲が伊達政宗に城下町繁栄のために建策し、容れられたもので、寛永8年(1631年)に政宗の黒印状で確認されたと伝えられる。元和6年(1620年)に、他国の商人が大町二丁目ではなく四丁目でも商売をさせてほしいと願い出た文書があり、それから考えると初めのうち二三四丁目も丁目ごと別々に品目が決められて、商人の願いによって統合されたようである。 この特権は他の町や領外の商人の商売を禁止する趣旨ではなく、大町に来て店を賃借することを奨励するものであった。城下町の形成期には他国から行商で来て一時的に滞在する商人が多く、不案内な者に確実に客が集まる店舗を提供することに意味があった。が、商業が発展するとすぐに不自由と感じられるようになった。この特権は、小売については延宝3年(1675年)の売り散らし令で廃止され、日市廃止のときと同様に城下の商人から営業税を取り立てて町に与えることで替えられた。 ただし、大町一丁目の古手だけは、寛保元年(1741年)までに復活した。城下の人々が自家の古手を売るのも、近郊の質屋が質流れになった古手を売るのも禁じ、すべて一度一丁目の古手屋に売ることが定められた。 さて、一町株による問屋の独占権は、宝暦10年(1760年)頃に六仲間と総称される同業者組合に集約された。仙台領外の商人は、仲間に属する商人に荷を卸さなければならず、領内の小売商人は仲間の商人から商品を購入しなければならない。ただし、大町を中心にした、しかし仲間ごとに異なる特定の町に家を持つか店を借りるかすれば、自由に加入できたので、完全に閉鎖的な特権ではない。これは、仙台の町においては中心街の振興と小売商人に対する問屋の優越を意味するものだったが、離れた地域ではその地域の商業の抑圧と不合理な輸送費加算を招いた。そのため、仙台領内の南北に知行地を持った領主・商人と、大町の検断・肝入・商人は、江戸時代を通じて藩当局に対して陳情合戦を繰り広げた。また、六仲間は頻発する他地域・領外の商人による密荷取締りにも乗り出したが、そのときにも安永4年(1775年)に大町三四五丁目の肝入只野利右衛門が立ち入り捜査権を藩に要請するなど、大町は六仲間と一体の利害をもって動いた。
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