経済と社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:23 UTC 版)
「ヴェネツィア領モレア」の記事における「経済と社会」の解説
モレア復興のため、他のギリシア各地から土地を与える約束で移民を集めた。これに応じた移民の多くはアッティカから来たが、この地域を含むギリシア中部もモレアと同様に戦争で著しく荒廃していた。他にも、2000人のクレタ人や、カトリック教徒のキオス島民、ヴェネツィア領イオニア諸島の住民や、中にはブルガリアからやってきた移民もいた。またモレアに残った1317人のムスリムがキリスト教に改宗し、土地や商業特権を与えられた。この政策のおかげで、モレアの人口は急速に回復した。マニ半島を除く全土の人口は、1691年の時点で97,118人だったのが翌年には116,000人となり、1700年までに176,844人にまで増加した。また商業特権を与えられた都市が栄えたため、農村から都市への人口流入も発生した。 ヴェネツィア当局は、農業と商業を復活させるために寛大な統治方針を取った。入植した一家族には60ストレンマの農地が与えられ、地域の長老には100ストレンマが配分された。またフランスやイタリアからブドウ産業がもたらされ、外国からのワインには関税がかけられた。これはギリシアのブドウ栽培を復活させ西ヨーロッパにレーズンを輸出するためだった。また林業やモレアの伝統的な絹産業も奨励された。ギリシアの中でオスマン帝国の支配下にとどまった地域や、北アフリカとの交易ルートも整備され、レーズンや穀物、綿花、オリーブ油、革、絹、蝋といった物産が輸出された。こうして経済も大きく発展し、税収も急速に増加した。1684/5年の税収は61,681レアルだったのが、1691年には274,207レアル、1710年には500,501レアルにまで増えた。そのうち5分の3は、モレアのために用いられた。なお、モレア戦争以前のオスマン帝国支配下での総税収は1,699,000レアルと推定されている。 ヴェネツィア支配下のモレアは多数の移民が流入したため、非常に社会的流動性が高かった。元からの住民と移民は、形の上ではそれぞれがそれまで属していた社会階級にとどまっていたのだが、ヴェネツィア当局は体制支持者に頻繁にコンテアス(conteas、「伯領」)と呼ばれる世襲封土を与えた。この政策は経済的な好況をもたらした。1570年代にペロポネソスのキリスト教徒スィパーヒーが解散させられて以降初めて、裕福な商人や領主の階層が形成された。その多くは、アテネやキオス島、イオニア諸島出身の人々だった。ギリシアの歴史家アポストロス・ヴァカロポウロスによると、この階層が、後に18世紀後半からギリシャ独立戦争までオスマン帝国支配下でペロポネソス半島の自治権を独占し寡頭制を敷いたコジャバシスあるいはプロクリトイと呼ばれた階層の起源となった。その一方で、先住者か移民かにかかわらず、大部分の農民の置かれる状況は、借金や賦役、土地の欠乏などにより日増しに悪化していった。こうした窮乏した農民たち、特に中央ギリシアに住み着いた移民の多くは、コリンティアコス湾を渡ってオスマン領に逃れることを選んだ。オスマン当局がこれを歓迎した一方、ヴェネツィア当局は住民流出を防ぐため警備隊を増設せざるを得なかった。この状況は、モレア人社会の心理をよく象徴するものだった。後の1715年にオスマン帝国がペロポネソス半島を再征服したとき、大部分の住民はこれをそのまま受け入れた。ヴェネツィアを支援した住民はコンテアスなどごく一部で、彼らはヴェネツィアの敗北に伴い半島における資産を放棄してイタリアへ亡命していった。 モレア戦争中の略奪と混乱のために、ヴェネツィア領モレアでは全土で盗賊が横行していた。これに対抗するため、ヴェネツィア当局はメイダーニ(meidani)と称する武装警官隊を組織し、またオスマン帝国のアマルトイ制度にならって、各村を武装させ自衛させた。これらは一定の成果を上げたが、盗賊を完全に一掃することはできなかった。マニ半島民などは到達困難な山地に城塞を築き、ヴェネツィアの支配を拒み続けた。
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