経済と歳入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 00:35 UTC 版)
アンジュー帝国の収入は各封土の様々な政治構造のため複雑であった。イングランドのように中央集権化が進んだ地区では、より緩い行政下にあったリムーザン(現地の侯は独自の硬貨を発行していた)よりも多くの収入を得られた。 イングランドで調達された財貨は大陸での諸問題に費やされたと一般に信じられている 。また、高い行政水準をもったイングランド、およびそれには劣るものの行政の整ったノルマンディーは、アンジュー帝国にとって、かなり安定した歳入を得られる唯一の地域だった。 イングランドでの収入自体は年によって様々である。 ヘンリー2世がイングランド王になった時の収入は、年にヘンリー1世統治下での半分でしかない10,500ポンドしかなかった。これはスティーヴン王の治世(無政府時代)の間に支配が弱まったからである。ヘンリー2世の統治が落ち着いてくると収入は次第に年に22,000ポンド上昇した。 第3回十字軍の遠征準備の時の収入は年に31,050ポンド増えたが、リチャード1世獅子心王がいなくなると年に11,000ポンドまで減った。 ジョン欠地王の統治下では、当初の収入は年に22,000ポンドと安定していた。その後フランス再征服のためにジョンは83,291ポンドの収入を達成したが、それでもすべての財源、たとえばユダヤ人からの収入などが含まれているわけではなく、それらを含めると1211年に145,000ポンドまで増えただろうとされる。 アイルランドでの収入は一貫して低く、1212年には2,000ポンドしかなかったが、大部分の記録は失われている。ノルマンディーでは公の統治により大きく変動した。ノルマンディーの収入は、1180年にはわずかに6,750ポンドであったが、1198年にはイングランドよりも多い25,000ポンドに達した。より印象的なのは、イングランドの人口が350万人に対してノルマンディーの人口は150万人とずいぶんと少なかったということである。 アキテーヌ、アンジュー、ガスコーニュの収入に関する記録は残っていないが、かといって貧しかったというわけではない。これらの地域には大ブドウ畑や、重要な都市、鉄鉱山があった。ラルフ・オブ・ディチェトはイングランド年代記で以下のように綴っている(アキテーヌの語幹 "aqui-" はラテン語で水の意)。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}アキテーヌはあらゆる種類の豊かさで溢れており、歴史家がガリアの地で最も豊かで実り育っていると見做していることからも分かるように他の西側世界よりも勝っている。土地は肥え、ブドウ畑は実り多く、森は野生に満ちている。ピレネー山脈から北へ流れるガロンヌ川や他の小川が田園を潤し、これら命の源たる水が実にこの土地の名の由来である。 カペー朝の君主はこのような収入に関する記録を残していないが、 ユーグ・カペーやロベール2世敬虔王の時と比べてルイ7世若年王やフィリップ2世尊厳王の時代には王国内の諸公国に対する中央集権化が進められた。プランタジネット家の諸王の富は巨大であると明確に見做されている。ジェラルド・オブ・ウェールズはその富についてこう記述する。 それゆえ人は、多くの戦争にもかかわらず、ヘンリー2世やその息子達がどのようにして多くの富を持てたかと尋ねるだろう。その理由は、固定収益が減ると、臨時徴収で総額の不足を埋め合わせたためであり、彼らは通常収入よりも臨時収入にますます依存していくことになった。 フランスの歴史家シャルル=プティ・デュタイイfr:Charles Petit-Dutaillisは「リチャードは、もし彼が生き続けていたならば、きっとライバルを打ち負かしたに違いない好機を彼に与える、財源の面での優位を維持し続けていた。」と記している。余り広く支持されていない、間違いだと証明された別の解釈がある。それはフランス王のみがアンジュー帝国全土の収入以上に収入を強化することができた、とするものである。
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