ジョゼフ・ボナパルトの治世
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「ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン」の記事における「ジョゼフ・ボナパルトの治世」の解説
詳細は「バイヨンヌ憲法(英語版)」および「ジョゼフ・ボナパルト」を参照 ジョゼフ政権はバイヨンヌ憲法(英語版)をその法的基盤とした。 フェルナンド7世は、1808年5月、バイヨンヌを去ると、各機関がフランス当局と協力するよう求めた。1808年6月15日、ナポレオンの兄のジョゼフが国王とされた。カスティーリャ枢機会議(英語版)がバイヨンヌで開かれたが、総員150名のうち65名しか出席しなかった。同会議はジョゼフ・ボナパルトへの譲位を承認し、ナポレオンの下で起草された憲法の法文のほか若干の修正をもって採択した。出席者の多くは愛国心と新国王への協力が矛盾するものとは受け止めていなかった。また、外来の王朝がスペイン王位を継承したのはこれが初めてではなく、ブルボン(ボルボーン)朝も、18世紀初頭にハプスブルク(アプスブルゴ)朝最後のカルロス2世が嗣子なく死去した後、フランスからスペインへ来た王朝であった。 ナポレオンもジョゼフも、新国王擁立が生むであろう反対の度合いを過小評価していた。1806年にジョゼフをナポリ国王につけ、その他の親族の支配地として1806年にホラント王国、1807年にヴェストファーレン王国を建国することに成功していたため、これが政治的ひいては軍事的な惨事を生んだことは意外な結果であった。 ジョゼフ・ボナパルトは1808年7月7日にバイヨンヌ憲法を発布した。同憲法は議会に集まった国民による主権の行使の結果ではなく、一種の勅令であったため、法文にもあるように欽定憲法とされた。法文は、ボナパルト朝の理想に沿って改革の精神が刻み込まれたが、旧体制下のエリート層の支持を得るためにスペインの文化にも適合したものになった。カトリックが国教と認められ、これ以外の宗教活動が禁じられた。政教分離は明記されなかったが、司法権の独立が明記された。執行権は国王以下諸大臣に属するとされた。コルテスは、旧体制に倣い、聖職者・貴族・平民の三身分で構成するとされた。予算に関する場合を除き、その立法権は王権の関与を受けるとされた。実際、国王は3年毎の議会召集を義務付けられただけであった。課税の平等、特権の廃止、スペインとイスパノアメリカの市民間の同権が示唆されたが、市民の法的平等は明記されなかった。同憲法は商工業の自由、商業特権の廃止、国内関税の撤廃も認めた。 同憲法はコルテス・ヘネラレス(Cortes Generales)という諮問機関を置き、王族男子と聖職者・貴族出身の勅任議員24名からなる元老院と、聖職者・貴族身分の代表者からなる立法議会をもってこれを構成した。同憲法の樹立した権威主義体制は拷問の廃止などの啓蒙政策も含んでいたが、異端審問は温存した。 スペイン人の反乱は、1808年7月16日から19日にかけてのバイレンの戦いにおけるフランスの敗北、ジョゼフとフランス軍最高司令部のマドリード撤退、スペインの大部分の放棄という結果をもたらした。 ビトリア滞在中、ジョゼフ・ボナパルトは、国務会議という諮問機関の創設を含め、国家機関を整理する重要な措置をとった。国王は政府を任命し、その首脳陣は啓蒙的グループを形成して改革計画を採用した。反仏政策をとがめられていたカスティーリャ枢機会議(英語版)のこともあり、異端審問は廃止された。封建的諸権利の廃止、教団の削減、国内関税の廃止も布告された。 この時代には商業・農業の自由化施策やマドリードでの証券取引市場の創設が見られた。国務会議は地方区分を38県とすることに取り組んだ。 ジョゼフ・ボナパルトに反抗する民衆暴動が広がるにつれ、初めはボナパルト朝に協力してきた多くの者が造反した。しかし、アフランセサード(英語版)(afrancesado, 親仏派)と呼ばれるスペイン人も数多く残っており、ジョゼフ政権を助長し、スペイン独立戦争に内戦としての性格を与える存在となった。アフランセサードは啓蒙専制主義の申し子を自認し、ボナパルト朝の到来を国の近代化の好機ととらえていた。多くはカルロス4世治世下の政府の構成員であり、例えば元財務責任者のフランソワ・カバリュス(英語版)、1808年11月から1811年4月にかけて国務長官を務めたマリアーノ・ルイス・デ・ウルキホ(英語版)がいた。もっとも、劇作家のレアンドロ・フェルナンデス・デ・モラティン(英語版)のような文筆家、フアン・アントニオ・リョレンテ(英語版)のような学者、数学者のアルベルト・リスタ(英語版)、フェルナンド・ソルのような作曲家等々もいた。 戦時中、ジョゼフ・ボナパルトはスペイン王権を最大限発揮し、弟のナポレオンの意に反して自治権の維持を図った。この点に関して、多くのアフランセサード(英語版)は国の独立を維持する唯一の方法は新王朝に協力することであって、反仏抵抗運動をすればするほど、フランス帝国軍に対するスペインの従属と戦争の必要が増すだけだと考えた。実際、ジョゼフの支配地域では旧体制に代わって近代的国家行政・機関が敷かれたが、常態的な戦争状態によりフランス元帥の権力が強化され、市民権の行使がほとんど許されなくなるなど、独立戦争が裏目に出ていた。 フランス軍の敗北によりジョゼフは三度にわたりマドリードを離れざるを得なくなった。一度目はバイレンの戦いの後の1808年7月からフランスによる首都奪還の11月まで、二度目は1812年8月12日から11月2日までのイギリス・ポルトガル連合軍の首都占領期間、最後は1813年5月で、国王はビトリアの戦いの後の1813年6月にスペインを去り、啓蒙専制主義の失敗劇に終止符が打たれた。ジョゼフの支持者の多く(約1万から1万2千人)は戦後敗走するフランス軍とともにフランスへ亡命し、その財産は没収された。ジョゼフは退位した。
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