ジョゼフ・ボナパルトの治世とは? わかりやすく解説

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ジョゼフ・ボナパルトの治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 03:36 UTC 版)

ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン」の記事における「ジョゼフ・ボナパルトの治世」の解説

詳細は「バイヨンヌ憲法英語版)」および「ジョゼフ・ボナパルト」を参照 ジョゼフ政権バイヨンヌ憲法英語版)をその法的基盤とした。 フェルナンド7世は、1808年5月バイヨンヌを去ると、各機関フランス当局協力するよう求めた1808年6月15日ナポレオンの兄のジョゼフ国王とされた。カスティーリャ枢機会議英語版)がバイヨンヌ開かれたが、総員150名のうち65名しか出席しなかった。同会議ジョゼフ・ボナパルトへの譲位承認しナポレオンの下で起草された憲法法文のほか若干修正をもって採択した出席者多く愛国心新国王への協力矛盾するものとは受け止めていなかった。また、外来王朝スペイン王位を継承したのはこれが初めではなくブルボン(ボルボーン)朝も、18世紀初頭ハプスブルク(アプスブルゴ)朝最後カルロス2世嗣子なく死去した後、フランスからスペインへ来た王朝であったナポレオンジョゼフも、新国擁立生むであろう反対度合い過小評価していた。1806年ジョゼフナポリ国王につけ、その他の親族支配地として1806年ホラント王国1807年ヴェストファーレン王国建国することに成功していたため、これが政治的ひいては軍事的な惨事生んだことは意外な結果であったジョゼフ・ボナパルト1808年7月7日バイヨンヌ憲法発布した。同憲法議会集まった国民による主権行使結果ではなく一種勅令であったため、法文にもあるよう欽定憲法とされた。法文は、ボナパルト朝理想沿って改革精神刻み込まれたが、旧体制下のエリート層の支持を得るためにスペイン文化にも適合したものになったカトリック国教認められ、これ以外の宗教活動禁じられた。政教分離明記されなかったが、司法権の独立明記された。執行権国王以下諸大臣属するとされた。コルテスは、旧体制倣い聖職者貴族平民三身分構成するとされた。予算に関する場合除き、その立法権王権関与を受けるとされた。実際国王3年毎の議会召集義務付けられただけであった課税の平等、特権廃止スペインイスパノアメリカ市民間の同権示唆されたが、市民法的平等は明記されなかった。同憲法商工業の自由、商業特権廃止国内関税撤廃認めた。 同憲法はコルテス・ヘネラレス(Cortes Generales)という諮問機関を置き、王族男子聖職者貴族出身勅任議員24からなる元老院と、聖職者貴族身分代表者からなる立法議会をもってこれを構成した。同憲法樹立した権威主義体制拷問廃止などの啓蒙政策含んでいたが、異端審問温存した。 スペイン人反乱は、1808年7月16日から19日にかけてのバイレンの戦いにおけるフランス敗北ジョゼフフランス軍高司令部のマドリード撤退スペイン大部分放棄という結果もたらしたビトリア滞在中、ジョゼフ・ボナパルトは、国務会議という諮問機関創設含め国家機関整理する重要な措置をとった。国王政府任命し、その首脳陣啓蒙的グループ形成して改革計画採用した。反仏政策とがめられていたカスティーリャ枢機会議英語版)のこともあり、異端審問廃止された。封建的諸権利廃止教団削減国内関税廃止布告された。 この時代には商業農業自由化施策マドリードでの証券取引市場創設見られた。国務会議地方区分38県とすることに取り組んだジョゼフ・ボナパルト反抗する民衆暴動広がるにつれ、初めボナパルト朝協力してきた多くの者が造反した。しかし、アフランセサード(英語版)(afrancesado, 親仏派)と呼ばれるスペイン人数多く残っており、ジョゼフ政権助長しスペイン独立戦争内戦としての性格与え存在となった。アフランセサードは啓蒙専制主義申し子自認しボナパルト朝到来を国の近代化好機とらえていた。多くカルロス4世治世下の政府の構成員であり、例えば元財務責任者のフランソワ・カバリュス(英語版)、1808年11月から1811年4月にかけて国務長官務めたマリアーノ・ルイス・デ・ウルキホ(英語版)がいた。もっとも、劇作家のレアンドロ・フェルナンデス・デ・モラティン(英語版のような文筆家、フアン・アントニオ・リョレンテ(英語版のような学者数学者のアルベルト・リスタ(英語版)、フェルナンド・ソルのような作曲家等々もいた。 戦時中ジョゼフ・ボナパルトスペイン王最大限発揮し、弟のナポレオン意に反して自治権維持図った。この点に関して多くのアフランセサード(英語版)は国の独立維持する唯一の方法新王朝協力することであって、反仏抵抗運動をすればするほど、フランス帝国軍対すスペイン従属戦争の必要が増すだけだと考えた実際ジョゼフ支配地域では旧体制に代わって近代的国家行政・機関敷かれたが、常態的戦争状態によりフランス元帥権力強化され市民権行使がほとんど許されなくなるなど、独立戦争裏目に出ていた。 フランス軍敗北によりジョゼフ三度にわたりマドリード離れざるを得なくなった一度目はバイレンの戦いの後の1808年7月からフランスによる首都奪還11月まで、二度目1812年8月12日から11月2日までのイギリス・ポルトガル連合軍首都占領期間、最後1813年5月で、国王ビトリアの戦いの後の1813年6月スペイン去り啓蒙専制主義失敗劇に終止符打たれた。ジョゼフ支持者多く(約1万から1万2千人)は戦後敗走するフランス軍とともにフランスへ亡命し、その財産没収された。ジョゼフ退位した

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