フランス帝国軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 06:26 UTC 版)
「イエナ・アウエルシュタットの戦い」の記事における「フランス帝国軍」の解説
皇帝親衛隊(16,000名) - ナポレオン・ボナパルト 第1軍団(20,000名) - ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット 第3軍団(27,000名) - ルイ=ニコラ・ダヴー 第4軍団(32,000名) - ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト 第5軍団(22,000名) - ジャン・ランヌ 第6軍団(20,000名) - ミシェル・ネイ 第7軍団(17,000名) - ピエール=フランソワ=シャルル・オージュロー 騎兵予備軍団(28,000名) - ジョアシャン・ミュラ 総兵力 - 182,000名 ラザール・カルノーに始まる一連の改革によって、フランス軍は国民兵と師団制を中心とした軍隊となった。1793年に導入された徴兵制は、フランス軍の動員兵力を飛躍的に増加させた。また、徴集された国民兵には従来の傭兵にはない強みがあった。すなわち、強い愛国心と、それを共有することによって生まれる団結力である。さらに逃亡の恐れが低いために、散兵戦術が使用できるようになった。 一方で、兵力の増加は指揮統制の困難を招いた。また、多方面での作戦を行うためには、従来の軍を1か所に集中させる編成では対応しきれなくなっていた。ここでカルノーが採用したのが師団制だった。師団は歩兵・騎兵・砲兵のいわゆる三兵戦術で構成され、独立して戦闘可能な単位だった。 ナポレオンはこれに改良を加え、師団の上位に軍団を設立した。軍団は独自の兵站組織を持ち、作戦レベルでの独立行動が可能な単位だった。これによってフランス軍は各軍団司令官の可能行動の幅を広げ、多方面にわたる戦力の柔軟な運用が可能となったのである。司令部通信能力の強化によって、一元的な指揮も維持することができた。この柔軟性に富んだ編成が、フランスの高度な兵站処理能力と組み合わさることにより、フランス軍は同時代の軍隊のなかでも特に高い機動力を獲得することに成功していた。
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