ジョゼフ・ボナパルトの即位
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「ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン」の記事における「ジョゼフ・ボナパルトの即位」の解説
詳細は「フンタ (半島戦争)」および「最高中央評議会」を参照 カルロス4世は、このときまでにスペインに10万人の兵隊を駐留させていたナポレオンが、復位に協力してくれることを望んでいた。しかし、ナポレオンはカルロス4世に協力することも、王子のフェルナンド7世を新国王として承認することも拒否した。引き換えに、カルロス4世とフェルナンド7世に圧力をかけて兄のジョゼフ・ボナパルトへ譲位させることに成功した。同時に、スペイン駐在フランス軍最高司令官のジョアシャン・ミュラ元帥は、スペイン国内へフランス軍を招いた働きによりアランフエス暴動を招いた前宰相のマヌエル・デ・ゴドイを釈放するよう迫った。スペイン政府はミュラの圧力に屈し、民衆の怒りを巻き起こした。1808年5月2日、ミュラはカルロス4世末子のフランシスコ・デ・パウラ王子に命じてスペインからフランスへと移らせ、マドリード市街の広範囲にわたる反乱につながった。 カルロス4世時代のスペイン中央政府主要機関であったカスティーリャ枢機会議(英語版)は、もはやナポレオンの支配下にあった。しかし、フランスの支配に対する民衆の怒りから、フランスの直接的占領下にある人口集中地以外では権威を急速に失った。こうした占領に反抗して、アラゴンやアストゥリアス公領などスペイン各地で旧地方統治機関が再建された。他方、力を合わせてフランス帝国軍との闘争を指揮するため、フンタ(junta, 評議会)が創設された。各地方のフンタが行動をまとめ、これらを監督するため地域のフンタが結成された。そして、1808年9月25日、唯一の中央最高フンタがアランフエスに置かれ、事実上、全スペインの抵抗政府としての機能を果たした。
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